末長
町丁
梶が谷駅(2007年5月)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度35分23秒 東経139度37分04秒 / 北緯35.58965度 東経139.617875度 / 35.58965; 139.617875
国 日本
都道府県 神奈川
市町村 川崎市
行政区高津区
地区橘出張所
人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1])
人口21,788 人
世帯数11,297 世帯
面積([2])
1.291447358 km²
人口密度16870.99 人/km²
設置日2013年(平成25年)9月24日
郵便番号213-0013[3]
市外局番044(川崎MA)[4]
ナンバープレート川崎
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末長(すえなが)は、神奈川県川崎市高津区の地名。現行行政地名は末長1丁目から末長4丁目。住居表示実施済区域[5]。面積は1.29 km2である[2]。 高津区の中央部にあり、北西では下末吉台地[6]に谷戸が入り込んでおり、南東が低地となっている[7]。低地部には富士通ゼネラルの本社があり、周辺も宅地となっている[8]。 東急田園都市線・第三京浜道路・南武線などの交通路が末長を通過し、梶が谷駅や京浜川崎インターチェンジなどが所在する。また、二ヶ領用水の分流である根方堀が台地と低地の境を流れている[9]。 末長は北端で下作延・久本・坂戸と、東端で中原区上新城と、南西端で新作・高津区梶ケ谷と接している(特記のない町域は高津区)。 住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、末長1丁目13-7の地点で34万3000円/m2[10]、末長1丁目31-7の地点で29万4000円/m2[11]、末長2丁目33-11の地点は休止[12]、末長4丁目22-39の地点で40万1000円/m2[13]となっている。 当地からは縄文・弥生時代の遺跡が発掘されている[6]。また、田地の地割りが条里制の遺構だと考えられているほか、延喜式の「小高駅」に関係すると思われる「小高谷戸」の地名が付いていたなど[9]、古代からの歴史がうかがえるが、「末長」の名の初出は「小田原衆所領役帳」に、「稲毛末長」として残る[7]。 江戸時代を通して、当地は旗本の国領氏・浅井氏・松波氏による三給の地であった[7]。「新編武蔵風土記稿」では民家71軒[14]。農地は畑より水田が多く[6]、村高は、正保年間の「武蔵田園簿」や「元禄郷帳」では508石あまり、「天保郷帳」では585石あまり、幕末の「旧高旧領取調帳」では587石あまりというように推移していた[6]。水利として、二ヶ領用水からの分流である根方堀のほか、「池の谷」と呼ばれた現在の梶が谷駅あたりに溜池を設けていた[9]。賦役として、溝口宿・品川宿の半高助郷を務めた。品川宿の助郷は負担が重く、何度も免除の嘆願を行なっているが、これが容れられることはなかった[15]。 明治以降、当地は橘村の一部となり、のちに川崎市へ合併した。当地では明治頃から養蚕が行われたり、大正末期からは養蚕に変わり野菜栽培が始まるなど、農村として推移していた[8]。しかし、1940年(昭和15年)に日本光学(現・ニコン)が水田を埋め立て当地に工場を設置し、海軍の光学兵器の生産を始めた[8]。その結果、1945年(昭和20年)には空襲を受けることとなり、工場が壊滅したのみならず周囲にも被害が出たが、日本光学は丘陵に地下壕を作り生産を続けたという[8]。 戦後の1955年(昭和30年)には日本光学の跡地に八欧電機(現:富士通ゼネラル)が進出し、周囲に社宅が建つなど、宅地化が進行していった[16]。 地名の由来ははっきりしていない[9]。ただし、いくつかの説が提起されている。
地理
地価
歴史
古代・中世
近世
近代・現代
地名の由来
瑞祥地名であるとする説[7]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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