末續慎吾
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末續慎吾


選手情報
フルネーム末續慎吾
ラテン文字SUETSUGU Shingo
愛称マッハ末續
国籍 日本
種目短距離走
所属EAGLERUN
大学東海大学
生年月日 (1980-06-02) 1980年6月2日(43歳)
出身地熊本県熊本市
身長178cm
体重68kg
成績
オリンピック100m:2次予選1組5着(2004年
200m:準決勝2組8着(2000年
4x100mR:2位(2008年
世界選手権200m:3位(2003年
4x100mR:4位(2001年
地域大会決勝アジア競技大会
200m:優勝(2002年,2006年
4x100mR:2位(2002年,2006年)
国内大会決勝日本選手権
100m:優勝(2003年,2004年)
200m:優勝(2001年,2003年,2006年,2007年
最高世界ランク100m:13位(2003年)
200m:3位(2003年)
自己ベスト
100m10秒03(2003年)
200m20秒03(2003年)
400m45秒99(2002年)

獲得メダル

陸上競技
日本
オリンピック
2008 北京4×100mリレー
世界陸上競技選手権大会
2003 パリ200m
アフロアジア競技大会
銅2003 ハイデラバード100m
アジア陸上競技選手権大会
金2005 仁川4×100mリレー
銀2005 仁川100m
アジア競技大会
2002 釜山200m
2006 ドーハ200m
銀2002 釜山4×100mリレー
銀2006 ドーハ4×100mリレー
東アジア競技大会
2001 大阪200m
金2001 大阪4×100mリレー
アジアジュニア陸上競技選手権大会
金1999 シンガポール4×100mリレー
銅1999 シンガポール100m
アジア
IAAF陸上ワールドカップ
銅2006 アテネ4×100mリレー
銅2006 アテネ200m


編集 

末續 慎吾(すえつぐ しんご、1980年6月2日 - )は、日本陸上選手熊本県熊本市出身。北京オリンピック男子4×100mリレー銀メダリスト。

東海大学高野進の指導を受ける。高野が日本人の体格に合わせて構築した走法を完成させ、世界陸上2003年パリ大会200mで3位となった。日本人でこの種目のメダル獲得は初めて。また、2006年のアジア大会の200mで2連覇するなどし、全盛期にはパトリック・ジョンソンとともに、「現役世界最速の非ネグロイド」とも言われた。

400mは練習の一環として取り組むが、学生時代には関東学生陸上競技対校選手権大会の4×400mリレー決勝で、東海大学のアンカーとして走り、44秒7のラップタイムで走った[注 1]

サッカー選手松本憲は従弟にあたる[1]
経歴

熊本市立西原中学校九州学院高等学校[2]東海大学を経て、ミズノに入社。社内留学で東海大学大学院修了。現在は熊本陸上競技協会所属。

小学校時代に全国小学生陸上競技交流大会に出場し、同じ学年の池田久美子走幅跳の記録上、負け(池田は5m19、末續は4m85)、走幅跳を競技しなくなる[3]。中学時代は、九州大会で100m2位に入った。

高校時代、国体の100mで2度優勝した。高1の時の県大会では、4種目[4] の後に顧問が止めたのにマイルリレーのアンカーを務め、走りきったあと倒れた。高3のインターハイの2週間前に体育の授業でバスケットボールの最中に体育館の窓ガラスにかかとを突っ込み15針を縫う怪我をするが出場し、100mでは決勝まで進出したものの8位[5]、優勝候補の200mでは25秒となり予選落ちした。

大学在学中に両親の離婚や、父との死別など不幸が重なり、陸上競技を続けることが経済的に困難となるが、2000年シドニーオリンピック代表入りし、陸連強化指定選手となり競技を続ける。なおそれまでは、食事が玉ねぎ一個だけであったり、練習時間を確保するため、深夜3時まで居酒屋の皿洗いのアルバイトをする等、苦境を乗り越えた末にオリンピック代表を勝ち取った。

2003年の世界陸上パリ大会では、8月29日の男子200m走決勝に進出し、20秒38で3位となった[6]。当時のフランス地元テレビ放送で「 Il est formidable, ce type. (すごい奴だ) 」と紹介され、銅メダルを獲得して高野と泣きながら抱き合う映像がフランス国内でも放映された[7](しかし男子4x100mリレーは足の故障発生により欠場)。同年10月8日には、3人目となる熊本県民栄誉賞を受賞した[8]

2004年8月のアテネオリンピックは、前年世界陸上で銅メダルを獲得した200mを回避し、男子100mに専念するも、2次予選敗退に終わった。男子4x100mリレー決勝では第2走者を担当、惜しくも4位入賞で五輪メダル獲得にあと一歩届かなかった。

2007年世界陸上選手権での4×100mリレー決勝サブトラックでは、「朝原(宣治)さんにメダルを!」と発言した。この時も第2走者を務め、38秒03のアジア新記録をマークしながらも5位入賞に留まり、朝原と共に1年後の北京オリンピックで、再度メダル獲得に向けての再挑戦の意向を示していた。

2008年8月22日の北京オリンピック男子4x100mリレー決勝では第2走者として激走[注 2]、オリンピックにおける日本男子トラック種目で史上最高位の3位に入り、日本代表としても陸上競技のリレー種目では歴代初めてとなる悲願の銅メダルを獲得。その後、このレースで金メダルを獲得していたジャマイカチームのネスタ・カーターがドーピングの検体の再検査で禁止薬物の陽性反応を示したため、2017年に銀メダルに繰り上げとなっている[9]。2008年10月以降は、疲労を理由に無期限休養を宣言。

2011年10月、3年ぶりにレースに復帰した[10]

2012年、ロンドン五輪代表選考会でもある日本選手権への参加を目指し、5月19日の東日本実業団で出場したが、標準記録を切れずロンドン五輪出場の可能性は途絶えた。10月の国体では熊本県代表に選ばれ400mリレーでチームのアンカーとして予選と準決勝を走った[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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