末永 吉幸基本情報
国籍 日本
出身地福岡県築上郡八屋町赤熊
生年月日 (1948-01-03) 1948年1月3日(76歳)
身長
体重173 cm
69 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション内野手
プロ入り1967年 ドラフト6位
初出場1968年
最終出場1979年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
福岡県立小倉工業高等学校
鹿児島鉄道管理局
東映フライヤーズ
日拓ホームフライヤーズ
日本ハムファイターズ (1968 - 1975)
中日ドラゴンズ (1976)
ロッテオリオンズ (1977 - 1979)
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末永 吉幸(すえなが よしゆき、1948年1月3日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手である。ポジションは内野手。日本ハム、中日、ロッテに所属した。 小倉工では2年生の時、二塁手として1964年の夏の甲子園に出場。1回戦で広陵高に延長11回裏逆転負けを喫する[1]。卒業後は鹿児島鉄道管理局に入社し、1966年の都市対抗野球大会に出場[2]。 1967年ドラフト6位で、東映フライヤーズに入団[3]。1969年には一軍に定着、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍する。レギュラーに大橋穣、大下剛史、阪本敏三らがいたため、準レギュラーという位置付けではあったが、1971年には主に遊撃手、三塁手として75試合に先発出場、チーム名が日本ハムファイターズとなった1974年には正遊撃手として66試合に先発出場、二塁手としても25試合に先発出場する。1975年オフに、渋谷幸春との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍[3]。しかし出場機会には恵まれず、1976年限りで自由契約となりロッテオリオンズに移籍した[3]。ここでも日本ハム時代同様、内野の準レギュラーとして起用されるが、出場機会が減少した1979年限りで現役引退[3]。 年
来歴・人物
詳細情報
年度別打撃成績
度球
団試
合打
席打
数得
点安
打二
塁
打三
塁
打本
塁
打塁
打打
点盗
塁盗
塁
死犠
打犠
飛四
球敬
遠死
球三
振併
殺
打打
率出
塁
率長
打
率O
P
S
1968東映
日拓
日本ハム12880100011000000021.125.125.125.250
19695333317410050001010060.129.156.161.318
19709514613313241313473212901233.180.234.256.490
19711023112733564923861788342625357.234.308.315.623
19728722518223501011652445662417194.275.370.357.727
1973741861651439414571513611212211.236.461.345.807
197410535930637811137119271161713322316.265.339.389.728
197585214189123320035821123614236.175.213.185.398
1976中日1220181310041000010171.167.250.222.472
1977ロッテ73160146123440553202522703192.233.278.363.641
19784611910912292034018113060190.266.310.367.677
19791113110000000000020011.000.154.000.154
通算:12年755179415711663624510244991383231511912772619632.230.295.318.613
東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
背番号
23 (1968年 - 1971年)
4 (1972年 - 1975年)
43 (1976年)
31 (1977年 - 1979年)
脚注^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、286ページ
関連項目
北海道日本ハムファイターズの選手一覧
中日ドラゴンズの選手一覧
千葉ロッテマリーンズの選手一覧
外部リンク
個人年度別成績 末永吉幸 - NPB.jp 日本野球機構
表
話
編
歴