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をお願いします。(2020年5月) 日本の政治家末松 謙澄すえまつ けんちょう
末松謙澄/『明治人物評論』より
生年月日1855年9月30日
(安政2年8月20日)
出生地日本、豊前国前田村
(現:福岡県行橋市)
没年月日 (1920-10-05) 1920年10月5日(65歳没)
出身校
東京師範学校中退ケンブリッジ大学
所属政党立憲政友会
称号正二位
勲一等旭日桐花大綬章
子爵
配偶者末松生子
親族末松房澄(父)
伊藤博文(義父)
末松春彦(甥・養子)
末松謙一(大甥)
第15代 内務大臣
内閣第4次伊藤内閣
在任期間1900年10月19日 - 1901年6月2日
第7代 逓信大臣
内閣第3次伊藤内閣
在任期間1898年1月12日 - 1898年6月30日
第4代 法制局長官
内閣第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
在任期間1892年9月29日 - 1896年9月30日
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末松謙澄
末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日〈1855年9月30日〉 - 大正9年〈1920年〉10月5日)は、日本の明治から大正期のジャーナリスト・政治家・歴史家。正二位勲一等子爵。帝国学士院会員。幼名は千松(または線松)、号は青萍。 豊前国京都郡前田村(現・福岡県行橋市前田)に大庄屋役末松房澄[1]と伸子の4男として生まれる。慶応元年(1865年)より地元の碩学村上仏山
生涯
明治4年(1871年)に上京、佐々木高行宅の書生となり、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候していた高橋是清と親交を結んだ。高橋から英語を教わる代わりに漢学教授を引き受けるなど互いに勉学に励み、明治5年(1872年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)へ入学した。しかし学校生活に不満を感じて同年中に中退。高橋と協力して外国新聞の翻訳で生計を立てつつ東京日日新聞社へ記事を売り込み、明治7年(1874年)に同社記者となり、笹波萍二のペンネームで社説を執筆。同時期にアメリカ合衆国に留学していた箕作佳吉の記事を東京日日新聞に掲載させたという。
明治8年(1875年)、社長・福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て正院御用掛として出仕、同年の江華島事件による李氏朝鮮との交渉を任された黒田清隆に随行、日朝修好条規の起草に参画した。明治9年(1876年)に工部省権少丞に任ぜられたが、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると陸軍省出仕に転じ、山縣有朋の秘書官として九州へ従軍、9月に西郷隆盛宛の降伏勧告状を起草した。同年太政官権少書記官となるが、翌明治11年(1878年)に英国留学を命じられ、駐在日本公使館付一等書記官見習として2月10日出航、4月1日ロンドンに到着した[2]。
英国滞在中はしばらく公使館に勤務したが、歴史研究に専念するため明治13年(1880年)12月に依願免官、明治14年(1881年)10月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した(箕作佳吉の兄菊池大麓の紹介があったとされる)。留学中はラテン語・ギリシャ語が課題の試験勉強に苦しみ、留学費用を賄うため三井財閥からの借金と前田利武の家庭教師代で学生生活をしのいだ。明治17年(1884年)5月に法律の試験に合格、12月に法学士号を取得して卒業した。この間、文筆活動もめざましく、明治12年(1879年)に義経=ジンギスカン説を唱える論文 The identity of the great conqueror Genghis Khan with the Japanese hero Yoshitsune を出版(6年後、慶応義塾生・内田弥八による和訳『義経復興記』が日本で出版されベストセラーとなる)。また明治15年(1882年)には「源氏物語」を初めて英訳し、英国詩人の詩を多数邦訳した。
第1次伊藤内閣・鹿鳴館時代の明治19年(1886年)に日本へ帰国、伊藤の意向を受けて歌舞伎の近代化のため福地源一郎・外山正一と共に演劇改良運動を興し、明治天皇の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させた。明治21年(1888年)に法学修士号を取得、同年から2年がかりでバーサ・クレイの『ドラ=ソーン』を翻訳、『谷間の姫百合』と題して発表。明治22年(1889年)4月に伊藤の次女・生子と結婚。この間文部省参事官、内務省参事官、内務省県治局長を歴任、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で福岡県から出馬し当選、衆議院議員となり政界入りした。