末期の眼
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末期の眼
作者
川端康成
日本
言語日本語
ジャンル随筆、随想
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出『文藝1933年 12月号(第1巻第2号)
刊本情報
収録『川端康成選集第1巻 随筆・批評集』
出版元改造社
出版年月日1934年10月19日
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
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『末期の眼』(まつごのめ)は、川端康成随筆・随想。芥川龍之介古賀春江梶井基次郎竹久夢二などの芸術家の運命と死、その芸術作品の神秘不思議に触れながら、自身の芸術観・死生観について連想的に綴った34歳の時の作品である[1][2][3][4][5][6]

その非情な芸術観が示された文章の所々に川端の小説家・芸術家としての覚悟や、一つの転換点を示すマニフェスト警句的な文言が含まれているため、川端を論じるにあたって必ずと言っていいほど取り上げられる随筆で[2][4][7][1][8][9]、同年に書かれた虚無的な小説『禽獣』との関連性が指摘されることも多い作品である[10][11][12]

川端の作家としての「眼」を表わす「末期の眼」というタイトルは、作中で言及される芥川龍之介の遺書「或旧友へ送る手記」の中の言葉「末期の目」から来たものである[13][3][5][7][14][15]。川端のこの作品名により、芥川の遺書中の「末期の目」に関する一節が相乗的に有名になった[3]
発表経過

初出は1933年(昭和8年)の『文藝』12月号(第1巻第2号)に掲載され[16][17][1]、翌1934年(昭和9年)10月19日に改造社より刊行の『川端康成選集第1巻 随筆・批評集』に収録された[16][18]

単行本としては、1939年(昭和14年)6月18日に金星堂より刊行の『純粋の声』に収録された後[16][19]1942年(昭和17年)4月17日に東峰書房より刊行の『文章』にも収録された[16][20]
あらまし

川端康成はある夏に伊香保温泉を訪れた際、竹久夢二を偶然見かける。明治から大正初めにかけ一世を風靡した風俗・抒情画家の夢二を「少年の日の夢」としか結びつけていなかった川端にとって、初めて会った夢二の老いた様子は思いがけない姿だった。夢二は頽廃の画家で、その頽廃が心身の老いを早めていたが、その頽廃は甘い頽廃のような印象であった。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}頽廃はに通じる逆道のやうであるけれども、実はむしろ早道である。もし私が頽廃早老の大芸術家を、目のあたりに見たとすれば、もつとひたむきにつらかつたであらう。(中略)夢二氏の場合はずつと甘く、夢二氏の歩いて来た絵の道が本筋でなかつたことを、今夢二氏は身をもつて語つてゐるといつた風の、まはりくどい印象であつた。芸術家としては取返しのつかぬ不幸であらうが、人間としては或ひは幸福であつたらう。これは勿論嘘である。こんな曖昧な言葉のゆるさるべきではないが、この辺で妥協しておくところにも、今の私はもの忘れよと吹く南風を感じるのである。人間はよりも反つてについて知つてゐるやうな気がするから、生きてゐられるのである。—川端康成「末期の眼」[21]

夢二についての回想から、「女によつて人間性と和解」しようとしたから起ったストリンドベルヒの恋愛悲劇についての想起に移った川端は、「あらゆる夫婦たちに離婚をすすめることがよくないならば、自分自身にさへまことの芸術家たれと望めないのも、かへつて良心的ではあるまいか」と述べる。

親子で作家という例もないことはないが、わが子を作家にしたい作家などいないとする川端は、芸術家は一代にして生れるものではないと考え、芸術家は「父祖の血が幾代かを経て、一輪咲いた花」であるとする[注釈 1]。旧家の代々の芸術的教養が伝はつて、作家を生むとも考へられるが、また一方で、旧家などの血はたいてい病み弱まつてゐるものだから、残燭の焔のやうに、滅びようとする血がいまはの果てに燃え上つたのが、作家とも見られる。既に悲劇である。作家の後裔が逞しく繁茂するとは思へぬ。—川端康成「末期の眼」[21]

正岡子規のように、死に瀕し病苦に喘ぎながらもなお一層、芸術作品を生もうとするのは優れた芸術家によくあることと述べながらも、川端はその姿勢を学ぼうとは思わないとして、自分が死病の床についた時には文学のことなどさらりと忘れていたいと言う。そして、自分はまだ作品らしい芸術作品を書いてはいないとし、死んでも死にきれそうもないが、それが即ち「迷ひ」であり、何も遺していない方が逆に安楽往生の妨げにならないだろうとも考える。

川端は自殺を嫌うとし、その要因の一つに「死を考へて死ぬ」という点にあると述べるが、またその言も嘘だとする。いざ死を向き合えば、自分も死ぬまで原稿を書くかのように手をふるわせているかもしれない。だが芥川龍之介ともあろう人が、なぜ「或旧友へ送る手記」を書いたのか心外だと言う川端は、あの遺書は芥川の「死の汚点」だとさえ思ったとしつつも、その芥川の手記を多く引用して紹介する。所謂生活力と云ふものは、実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}末期(まつご)の目に映るからである。—芥川龍之介「或旧友へ送る手記」[29]

川端は、自身が遙かに年少という安心もあって芥川を作家としても文章家としてもさほど尊敬はしていなかった面もあったとしつつも、芥川の死近くに書かれた『歯車』は読後直後、「心から頭を下げた作品」だったと語る。そして、そこには芥川の「末期の眼」が最もよく感じられ、『西方の人』『歯車』は芥川が死を賭して購った作品だとする。修行僧の「氷のやうに透み渡つた」世界には、線香の燃える音が家の焼けるやうに聞え、その灰の落ちる音が落雷のやうに聞えたところで、それはまことであらう。あらゆる芸術の極意は、この「末期の眼」であらう。—川端康成「末期の眼」[21]

横光利一が日本文学における画期的な傑作『機械』を3年前に発表した際、川端は何かしらの不安を覚え、当時の『機械』評に「幸福を感じさせると同時に、また一種の深い不幸を感じさせる[30]」と書いたことがあった。その後その不安はだいぶ去ったが、その代わりに横光自身の苦しみはさらに加わったと川端は述べる。

川端は、ジョン・D. ベレスフォード(J. D. Beresford)が著書『小説の実験』の中で「吾々の最もすぐれた小説家たちは常に実験家(エクスペリメンタア)であつた」、「散文に於てであれ、韻文に於てであれ、凡ての規範はその起源を天才の作品に発している」と述べた言葉を引きつつ、「実験」の出発は、たとえそれが少し病的なものであれ「楽しく若やいだもの」であり、「末期の眼」はやはり「実験」であろうが、それは「死の予感」と相通ずることが多いとする。

「我事に於て後悔せず」と常に念頭に置いているわけでもなく、元来物忘れがひどいためか自省心欠如のためか、自分は「後悔といふ悪魔」に一向に襲われることはないとする川端は、しかし凡ての物事は起るべくして起るような気もするとし、そして、まだ死にそうもない歳で死んだ芸術家の作品の中には「死の予告」があることがしばしばだと考える。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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