末の松山
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末の松山(2007年8月撮影)

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末の松山(すえのまつやま)は、宮城県多賀城市八幡の独立小丘陵[1]にある景勝地。

2014年平成26年)10月6日より、「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の名勝にも指定された。南西側の丘陵裾部に「沖の石」(北緯38度17分12.6秒 東経141度0分12秒 / 北緯38.286833度 東経141.00333度 / 38.286833; 141.00333 (沖の石))がある。

大津波が超えてはならぬ」という意で歌枕となったとされる。
古今和歌集

最初の勅撰和歌集古今和歌集』(延喜5年(905年))の序文「仮名序」 に、貞観11年(869年)の貞観津波は「まつ山のなみ」として取り上げられ、「あるは、まつ山のなみをかけ、野中の水をくみ、秋萩の下葉をながめ、暁の鴫の羽掻きをかぞへ、あるは、くれ竹のうきふしを人にいひ、吉野川をひきて世の中を恨みきつるに、今は富士山の煙もたたずなり、長柄の橋もつくるなりと聞く人は、歌にのみぞ心を慰めける。」と記されている。

「末の松山」が詠まれた歌は『古今和歌集』に二首収録された。一首は巻第六の「冬歌」に収められている。 寛平御時后宮歌合の歌 藤原興風浦近く 降りくる雪は 白波の 末の松山 越すかとぞ見る

藤原興風は、生没年不詳の平安時代の歌人で、三十六歌仙の一人とされ、相模掾正六位上道成の男で、自らも昌泰3年(900年)に相模掾となっている。貞観津波の同時代を生きた東国ゆかりの人物であることは間違いなさそうであるが、実際に陸奥国を訪れたことがあるかは定かではない[2]。そもそも貞観津波の発災は夏五月であり、冬ではなく、すでに実景からはかけ離れた虚構の文学世界の表現となっている。この歌は詞書にもあるように、寛平初年(889年)ごろに開催された歌合の作品からの収録である。本来歌合は相手と歌の優劣を競い合う競技の場であり、興風の歌の相手は次のように応じている。

「雪ふりて 年の暮れゆく 時にこそ つひにもみぢぬ 松も見えけれ」

古今和歌集には、上句が「雪降りて 年の暮れぬる 時にこそ」と改められ、掲載されている。両者ともに、雪の白と松の緑の対照のなかで作品を絵画的に構成している。また、興風の歌が成立する前提として「末の松山」に関する知見が必要であり、古今和歌集の巻第二十に収められた「東歌」がすでに都には伝わっていたものと考えられている[3][4]。 陸奥歌君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も越えなむ

あなたを差し置いて「あだし心」を私が持てば、あの末の松山は波も越えてしまうでしょう[5]。「あだし心」は他心の意と不実の意とを掛けるとし、男女どちらが歌ったともとれる平易で明解な民謡風の歌と評されている。また、季節を特定できる内容ではなく、貞観津波に関する『日本三代実録』の記述とも齟齬はない。問題は、こうした解釈の通りであれば、災後わずか20年を経ずして、溺死者千人ばかりを出した大惨事の舞台が男女の恋心の歌として相対化され、都に聞こえるまでになっていたことである[6]
歌枕末の松山歌碑「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」

『古今和歌集』に収録された「末の松山」はその後多くの歌人に詠まれ、実景からは遠のき、「あだし心を持てば波が越す」という歌枕として定着した。13世紀前半に成立した『小倉百人一首』には清原元輔(908年 - 990年)による次の歌が撰ばれ、ますます人口に膾炙した。「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」(『後拾遺和歌集』恋四)

これは、869年の貞観地震による津波の際の様子をうたったものであり、現代語に訳すと次のようになる。「約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が浪を決してかぶることがないように2人の愛も変わらないと。それなのに」

これは、大津波が襲来したが、津波が末の松山を超えることはなかったということを物語っている[7]。また貞観地震と同様に、東北地方に津波による甚大な被害を出した2011年の東日本大震災の際も、周辺の市街地では2 mの浸水があったが、末の松山に波がかぶることはなかった[8]

元禄2年(1689年5月8日には、松尾芭蕉らも訪れ、「奥の細道」に「末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、 籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとヾ哀也。」としている。
八幡社伝承

仙台藩が提出させた『風土記御用書出八幡村』(安永3年(1774年))では、 八幡村の名所として「末の松山」を挙げ、末の松山には旧跡として伊達家御仮屋のうしろ古館の内の古杉のところに「八幡社之跡」があったとしている。

この八幡社の勧請については、いくつかの伝承がある。宮城県神社庁編纂の『宮城県神社名鑑』(1976年)では、「元正天皇養老5年諸国に国分寺を建立せられし頃、別当寺般若寺と共に末松山に勧請したといわれる。


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