未回収のイタリア
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第一次大戦後のイタリア王国

未回収のイタリア(みかいしゅうのイタリア)またはイタリア・イレデンタ(イタリア語: Italia irredenta)は、19世紀において、イタリア王国が領土と主張した地域のうち、イタリア統一戦争後もオーストリア領内に残った地域である。南ティロルやゴリツィア・グラディスカ伯国(イタリア語版、英語版)、ヴェネツィア・ジュリアフィウーメダルマツィア地方などの旧ヴェネツィア共和国領がそれである。
概要
リソルジメントとイレデンティズモ詳細は「イタリア統一運動」および「ローマ問題」を参照トレントのダンテ像(イタリア語版)

リソルジメント(イタリア統一運動)の結果、1861年イタリア王国が成立したが、それ以降、オーストリアの支配下にあるトレンティーノ=アルト・アディジェ(南ティロル)やヴェネツィア・ジュリアでは祖国復帰の機運が高まり、イレデンティズモ(復帰運動)ということばが用いられるようになった[1]1866年普墺戦争の際、プロイセン軍と同盟してオーストリアと戦い、ヴェネツィアを奪回したが、戦争はわずか7週間で終結してしまったため、ヴェネツィアよりも奥に位置する領土の奪回を果たすことなく終わった[2]。イタリア王国軍は、1870年フランス軍の撤退に乗じてローマに入城(ローマ占領(イタリア語版、英語版))し、教皇領を併合、翌年にはローマに遷都して一応の統一完成をみたが、南ティロルやトリエステ、イストリアなど「未回収のイタリア」と呼ばれた地域を取り戻すことはできなかった。

ローマ併合後のイタリアは国内建設に集中できるよう、列強間の国際問題に対してはさほど積極的に関与しなかったものの、一方では国際的孤立を恐れた[2]。そうしたなかで、しだいにオットー・フォン・ビスマルク率いるドイツ帝国との関係が深まり、ドイツを通してオーストリアと接触することも多かった[2]。しかし、イタリアの世論は、旧敵国でもあり、イタリア人が多く住む(イタリア語の話される)地域をオーストリアが依然領有しているところから、反オーストリア感情が強かった[2]

リソルジメントの精神を継承したイレデンティズモの運動は、当初は、民衆的な性格を有する国民主義民族統一主義を代表し、1877年に共和主義者のマテオ・レナト・インブリアーニ(イタリア語版)が創立した「プロ・イタリア・イレデンタ」は、イタリア統一の功労者ジュゼッペ・ガリバルディの支持を得た組織であった[1][2]。この運動の中心は、インブリアーニをはじめとして民主派・共和派のグループであり、対外進出的なナショナリストのグループとはほとんど接点がなかった[2]。この時期の運動では、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の暗殺を計画して処刑されたトリエステの愛国者グリエルモ・オーベルダン(イタリア語版)が過激なものとして知られる[1][2]

1882年には、イタリア、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の間で三国同盟が成立した[2]。この三国同盟は、フランスがチュニジア保護国としたことに不満をもったイタリアが、ドイツ・オーストリアの同盟に加わることで成立したものであった[2][注釈 1]1887年イタリア首相となったフランチェスコ・クリスピ(イタリア語版)は、祖国イタリアを列強の一員に押し上げる対外政策を進め、国威発揚につとめるとともに、ドイツのビスマルク首相との連携を強めて三国同盟路線を強化した[2]。そして、オーストリアを敵視するイレデンティズモの運動を嫌い、この運動を進める共和派諸団体の解散を命じるなど政治的圧力を加えた[1][2]。しかし、国民のあいだではイレデンティズモの影響はなかなか衰えなかった[1]
第一次大戦と復帰運動

イタリアは、独墺とのあいだに三国同盟を結んでいたにもかかわらず、20世紀に入ってイギリスフランスに接近し、こうした外交方針の変更とともに復帰運動の性格も大きく変化した[1]。すなわち、バルカン半島への進出を求めるイタリア・ブルジョアジー帝国主義的な要求と結びつくようになり、文筆家エンリコ・コッラディーニ(イタリア語版)によって1910年に結成されたイタリア・ナショナリスト協会(ANI、国民主義協会)に合流する一要素となった[1]

第一次世界大戦に際しても、イタリアは当初、三国同盟にもとづいて同盟国側に立つものとみられたが、「未回収のイタリア」をめぐってオーストリアと対立し、1914年の開戦に際してはアントニオ・サランドラ首相とシドニー・ソンニーノ(イタリア語版、英語版)外相は「神聖なエゴイズム」を標榜して中立を宣言し、戦局の推移を見守った[3][4]。国内世論もまた、自由主義の諸派は参戦に批判的で、議員の多くは中立主義であった。イタリア社会党は非戦の立場をとり、参戦論には、イレデンティズモの立場から、ヨーロッパの民族解放と民主主義を求める立場から、さらにサンディカリズム(労働組合主義)の立場からなどがあり、民族主義者も参戦論に合流するなど、分裂し、かつ流動的であった[4]。ソンニーノ外相はひそかに英仏両国と交渉し、「未回収のイタリア」の返還が1915年ロンドン条約(ロンドン密約)によって秘密裏に約束されると、同年、イギリス・フランス・ロシアらの連合国側について参戦した[4]。ナショナリスト協会(ANI)も、そこから離脱した民主主義者たちも参戦を支持した[1]

大戦後、1919年1月に始まったパリ講和会議では、さきのロンドン密約で保証されていたイタリアの植民地拡大はほとんど認められず、フィウーメ(現在のクロアチアのリエカ)の併合問題も保留とされたため、イタリアは「講和での敗戦国」と呼ばれるほどであり、講和会議に参加していた首相ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドは、この内容を不服として会議の席をけって退出するほどであった[3]


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