木簡
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木簡(もっかん)とは、主に古代の東アジアで文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板である。の普及により廃れたが、完全に存在を消したわけではなく、荷札などには長く用いられた。竹片に書かれた竹簡と木簡を合わせて、簡牘と呼ぶ。荷札木簡(複製)。飛鳥、奈良時代、7-8世紀。飛鳥京、藤原宮、平城宮跡出土品。
概要

木の板に文字を書くことは、文字の存在する文化圏では古くからごく一般に行われていた。後代にも文字を書いた木というだけなら、落書きした木片や呪いの札など多種多様なものがみられる。歴史学・考古学の見地からは、それらすべてが過去の生活の様子を伝える貴重な資料であり、広い意味での木簡として研究対象になる[1][2]。この意味での木簡は、研究上の概念であり、その時代の人々が字が書かれた様々な木を木簡として一まとめに考えていたわけではない。

その中で、中国朝鮮日本では一行または数行の文を書いた細長い板が多数出土しており、これこそが典型的な、狭義の木簡である。これらは当時も木簡と呼ばれていたが、用途や状況に応じて様々に呼ばれた。漢代まで、木簡と竹簡で、冊書を作る場合は、一行しか書けない細長い規格で作られた。後に長い文書が紙で作られるようになり、木簡の形に対する制約がなくなっても、細長い形は変わらなかった。

木簡の特徴の一つは、削って書き直したり再利用したりすることができるという点である。そのため当時の文具には筆、墨、硯に加えて小刀が含まれていた。削り屑に習字した例もあり、上述の広義の木簡に含まれる。書き直しが容易ということは、反面、改竄の痕跡が残りにくいということでもあった[3]
中国の木簡居延出土の木簡册帳簿 ACE97頃「竹簡」および「帛書」も参照

「簡」とは、もともと竹製のふだを表す言葉であり、中国ではに文字を書いた竹簡も広く使われた[4]。気候の関係で竹が生育しない黄河流域以北では木の木簡も用いられる。

紙が普及する後漢以前、有力な筆記素材は木(竹)か帛書)であった。帛書は高価であったため、広く用いられたのは木簡・竹簡であった[5]。中国の考古学では竹簡と木簡(木牘)を総称して簡牘といい、日本の「木簡学」を中国では「簡牘学」と呼称する[6]
木簡の発見

ハンガリー出身のイギリス人オーレル・スタインが尼雅(ニヤ遺跡)で50枚、スウェーデンのスウェン・ヘディン楼蘭で120枚余の代の木簡を発見した1901年を、遺跡からの木簡出土の嚆矢とする[7]。スタインは、1907年1913年-16年の、第2次・第3次探検でも、約900枚の漢代の木簡を発見した(敦煌漢簡)。その後西北科学考査団によって、1930年にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見された(居延漢簡)。このときは木簡を横に並べて作った冊書が初めてみつかった[8]。このように、20世紀前半の木簡は、ヨーロッパ人の中央アジア探検隊が西北辺境で発見したものであった。

20世紀後半からは中国人が全国で多数発見するようになった[9]。スタインらの発見は極度の乾燥状態で保存されたものだが、後半以降は地中の墓にあって水に漬かった状態や高い湿度のおかげで腐らず残ったものである[10]。20世紀末からは古井戸からの出土も多くなり、2007年以降は骨董市場から購入する例も出てきた[11]。発見数は100万点を超えるとも言われる[12]
木簡の歴史

「冊」は細長い木簡を並べ、紐を通してまとめた形を表している。これと似た文字が、(商)代の甲骨文字に見られ、「冊」と考えられている。木簡による文字記録は殷代には既に行われていたと推定される[13][14]

出土木簡の中で数が多いのは漢簡、つまり漢代の木簡である。漢代の一般的な簡牘は長さ一尺(約23cm)、幅五分(約1cm)、厚さは0.2から0.3mmである[15]。これに20字から40字を書けた[16]。2行書けるように幅を広げた「両行」という形もよく使われた。重要なものは大きめのものに書くという考えがあり、皇帝用の簡牘は少し大きく長さ一尺一寸(25cm)とされた[17]経書用の簡牘は二尺四寸(55cm)で、これは文献に見える規定と出土の現物が一致する[18]。そして、律令など法律を書く木簡は、三尺(70cm弱)の長さをとった[19]

漢代の文書には、封泥をするための「検」という宛名を書くための木製の物を付けて送った。検は封泥を入れるための凹みがあり、その凹みの両側には紐をかけるために欠けたところがある。木簡本体と検を重ね、凹みを通して紐をかけ、紐の上から封泥を付ける。封泥の上に印を押して完成する。受け手は印が真正で、封泥が壊れていないことを見て、偽文書でないことを確認する[20]

漢代までは、文章が長くなるときには簡をつづりあわせて冊(編綴簡)にした。紙が普及しはじめた魏晋の頃には、文書に紙と木が併用された。公式的な長い文書には紙が使われ、特別な儀式を除き簡を束ねて冊を作ることはしなくなった。そのせいで木簡は一枚で完結する文書に用いられることになり、形の規格がなくなった。中国ではふつう木簡の裏に字を書かなかったようである[21]
著名な木簡発見

居延漢簡 - 前述。新疆ウイグル自治区の楼蘭・尼雅やエチナ川流域で発見される。

馬圏湾漢簡 - 1979年、敦煌市西北95kmの漢代の烽燧址から出土した、約1200枚の木簡。

走馬楼呉簡 - 1996年長江以南、湖南省長沙市で発見される。三国時代嘉禾年間(232年-237年)の紀年を含む、木簡が数万点、竹簡は約2000点が出土した。その多くは、契約文書類である。ほぼ長沙簡牘博物館に収蔵。

敦煌懸泉置漢簡 - 敦煌の東方にある、前漢中頃より魏晋代の郵便施設である懸泉置から出土した、20000点余の木簡。

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