木田 勇2018年7月 高木豊YouTubeチャンネルにて
基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県・横浜市旭区
生年月日 (1954-06-07) 1954年6月7日(69歳)
身長
体重180 cm
75 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1979年 ドラフト1位
初出場1980年4月6日
最終出場1990年7月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
横浜第一商業高等学校
日本鋼管
日本ハムファイターズ (1980 - 1985)
横浜大洋ホエールズ (1986 - 1989)
中日ドラゴンズ (1990)
監督歴
信濃グランセローズ (2007 - 2008)
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木田 勇(きだ いさむ、1954年6月7日 - )は、神奈川県横浜市旭区[1]出身の元プロ野球選手(投手)・監督。左投左打。
史上初の新人王とMVPの同時受賞者(他には野茂英雄〈1990年〉・村上頌樹〈2023年〉のみ)[2]。 横浜一商高(現・横浜商科大学高等学校)では1972年夏の選手権県大会で準決勝に進出するが、秦野高に延長11回の熱戦の末に敗退。社会人野球の日本鋼管に進み、1977年の都市対抗2回戦で電電北海道を相手にリリーフながら初登板、敗れたものの好投を見せる。1978年の同大会はエースに成長、3試合連続で完投勝利、準決勝ではリリーフに回るが本田技研鈴鹿を降す。決勝では東芝の黒紙義弘と投げ合うが0-4で完封負け。準優勝にとどまるが同大会の久慈賞を獲得した[1]。同年の第25回アマチュア野球世界選手権日本代表にも選出される。 同年のドラフト会議では、大洋、広島、阪急の3球団が1位指名。抽選の結果、広島が交渉権を獲得したがこれを拒否[1]。一般には大洋入りを強く希望したためと報じられているが実際は在京セ・リーグであればどの球団でも応じるつもりであった。その理由として父親が胃癌、母親が胆石を患っており「長男として両親の面倒をしっかり見なくてはならない」という思いがあったからだという。両親からは「おまえの希望する道に行っていいんだよ」との言葉を貰っており、本人もドラフト1位指名を名誉には思ったが先述の理由でどうしても横浜を離れる気にはなれなかった、と語っている[注 1][注 2]。なお、広島のドラフト1位指名を拒否した人物は木田のみである。翌1979年の都市対抗でも活躍、第4回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、日本の準優勝に貢献した。 1979年のドラフト会議でも再び3球団(巨人、日本ハム、大洋)の1位指名が重複したが、交渉権を得た日本ハムに入団した[1]。日本ハムがクジを当てた時に「俺は運の無い男だ」とボヤき[4]、入団交渉にあたって条件として住宅(土地とも言われている)を要求したと伝えられたことも話題となった。しかし、これは大社義規オーナーの「プロの選手なら自分で稼ぎなさい」の説得で断念した[4][注 3]。 1980年は、オープン戦から2勝と快調に飛ばした。開幕2戦目に先発初出場して、西武を相手に7安打を打たれながら完投勝利で飾った。4月の成績は防御率0.79・4勝0敗で早くも月間MVPに輝いた。空振りの取れる速球に大小2つのカーブを投げ、特に植村義信投手コーチに教わったパームボールは大きな武器となった[4][5]。江夏豊と並ぶ23投球回連続奪三振の日本プロ野球タイ記録も樹立している。毎回奪三振もシーズン3回記録しており、これは江川卓(1981年)と並ぶプロ野球記録である。リリーフでも登板しており、無死満塁の状況で阪急の福本豊、簑田浩二、加藤英司から全て速球で連続奪三振を取る離れ業もやってのけた[4]。三振を取っての派手なガッツポーズはこの木田が元祖だと言われている[4]。 しかし、9月2日の対近鉄戦で16安打を打たれて5得点を奪われ、辛うじて18勝目を挙げたものの186球を費やす苦闘。以来本塁打を献上し始め、「球の軽さ」が話題に上がるようになった[4]。後期優勝のかかった10月7日の近鉄との最終戦(10.7決戦)では、満員の客を集めた後楽園球場で3回表無死二塁からリリーフとして登板。しかし、佐々木恭介に打たれて同点。4回表には3安打を連ねられて3点を失った。カーブの制球が定まらず、バックの失策も出た。先行した近鉄を日本ハムが追い掛ける展開となった。8回表に有田修三が木田からソロ本塁打を放って6-4と2点ビハインドとなったところで、木田はマウンドに座り込み、降板した[6]。 試合に敗れて優勝を逃したが、22勝8敗4セーブ・225奪三振・防御率2.28・勝率.733という成績で最多勝・最優秀防御率・最高勝率と当時の投手三冠タイトルを独占したことに加え、最多奪三振も記録している。新人王、そして史上初めて新人選手としてMVPも受賞した。なお、これ以降に日本プロ野球でシーズン22勝以上を挙げた投手は2013年の田中将大まで現れなかった。
経歴
プロ入り後