きづむら
木津村
廃止日1897年4月1日
廃止理由編入合併(大阪市第一次市域拡張)
木津村→大阪市・今宮村(分割編入)
現在の自治体大阪市
廃止時点のデータ
国 日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
郡西成郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
隣接自治体西成郡難波村・今宮村・勝間村・川南村・西浜町
木津村役場
所在地大阪府西成郡木津村
ウィキプロジェクト
テンプレートを表示
木津村(きづむら)は、摂津国・大阪府西成郡にあった村。現在の大阪府大阪市浪速区と西成区の各一部にあたる。 木津の名称は、当地がまだ海浜だった古代に、四天王寺建立のための材木を荷揚げした津(港)であったという伝承に由来する。また、当地を含む海浜地帯の総称とされる敷津(しきつ)からの転訛とも言われ(『五畿内志』)、現行行政地名にも使用されている。 大坂市街の南側に位置していたという地理条件から、戦国時代にはたびたび合戦の舞台となった。江戸時代には大坂市街へ野菜を供給する畑場八ヶ村[1]のひとつで、1809年(文化6年)には木津難波市場が開設された。 皮革商は「木津北島町一丁目の赤松[2]、井野商店、竹田由松[3]、竹田覚之助、中井商店、柳生商店内外毛皮製造販売の柳生[4]、阪田、木津北島町二丁目の荒木栄蔵、秋野、鍵岡[4]、早岡、西岡、中井、前田、松下、宮本、木津北島町四丁目の吉田、木津三島町の松田[2]」などがいた。
歴史
沿革
1889年(明治22年)4月1日 木津村単独で町村制を施行。
1897年(明治30年)4月1日 北部が大阪市南区、南部が西成郡今宮村へ分割編入され、それぞれ大阪市南区木津、今宮村大字元木津となる。同日木津村廃止。
1900年(明治33年) 南区木津を木津敷津町、木津大国町、木津鴎町、木津勘助町、木津三島町、木津北島町に改編。
1913年(大正2年) 今宮村大字元木津を木津に改称。
1917年(大正6年)9月1日 今宮村が町制施行。今宮町大字木津となる。
1921年(大正10年) 南区木津北島町を栄町に改称。
1922年(大正11年) 今宮町大字木津を北開、中開、南開、出城通、長橋通、鶴見橋北通、鶴見橋通、旭北通、旭南通、梅通、梅南通、松通、橘通、桜通、柳通に改編。
1925年(大正14年)4月1日 南区側の各町が浪速区へ転属となり、「木津」の冠称を廃する。今宮町が大阪市西成区へ編入される。
1962年(昭和37年) 浪速区栄町を浪速町東、浪速町西のそれぞれ一部に改編。
1973年(昭和48年) 西成区側の各町を北開、中開、南開、出城、長橋、鶴見橋、旭、梅南、松、橘の現行行政地名に改編。
1980年(昭和55年) 浪速区側の各町を敷津東、敷津西、大国、塩草、浪速東、浪速西の現行行政地名に改編。
経済
産業
商工業
企業
大阪人造肥料[5]
大阪屠畜(屠畜)[6]
西浜土地建物 - 木津北島町三丁目[7]。
浪花貯蓄銀行[8]
木津銀行[8]
製革場
奥田製革場(帯皮諸皮) - 木津北島町二丁目[4]。
地域
医療
医師は、折口秀太郎、折口静(木津鴎町一丁目)[9]、清水、高垣[10]などがいた。
施設
宗教
願泉寺
敷津松之宮社[11]
出身者
跡見花蹊 - 跡見学園の創設者
折口信夫 - 民俗学者、国文学者、歌人
脚注[脚注の使い方]^ 西成郡吉右衛門肝煎地・西高津村・難波村・木津村・今宮村・勝間村・中在家村・今在家村
^ a b 『大大阪営業名鑑』
^ 『人事興信録 第5版』
^ a b c 『大阪人士商工銘鑑』