木村秀政
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木村秀政
木村秀政(1953年)
生誕1904年4月13日
北海道
死没 (1986-10-10) 1986年10月10日(82歳没)
墓地青山霊園
国籍 日本
教育東京帝国大学大学院
業績
専門分野航空工学
勤務先航空研究所、東京帝国大学、日本大学
設計A-26(キ77)
受賞歴ポール・ティサンディエ賞、勲二等旭日重光章

木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年明治37年〉4月13日 - 1986年昭和61年〉10月10日[1])は、日本航空機設計者。航空機研究者。工学者航空工学教育者。東京帝国大学教授、日本航空学会会長等を歴任。戦後は日本大学で後進の育成にあたり、1974年(昭和49年)から日本大学名誉教授

日大時代の1961年11月に初飛行ニュースを聞いた人力飛行機開発を学生たちとともに計画。1963年から所属する機械工学科航空専修コースの卒業研究テーマとして研究開発に着手し、日本初の飛行を実現させた。
生涯

1904年(明治37年)、北海道にて出生。木村家の先祖は南部藩士であり、五戸(現在の青森県三戸郡五戸町)にて代々代官を務めていた。誕生後すぐに家族とともに東京市へ転居。1913年(大正2年)3月28日、フランス製のブレリオ XI-2 bisの飛行を目にしたが、この機が墜落し飛行士2名が死亡した事を知り大きな衝撃を受ける(日本初の航空機死亡事故であった)。

府立第四中学校第一高等学校を経て、1924年(大正13年)4月、東京帝国大学工学部航空学科へ進学[2]。この時、航空学科へ入学した10名の中には三菱重工業で九試単座戦闘機(九六艦戦)や十二試艦上戦闘機(零戦)の設計主務者となる堀越二郎、川崎航空機でキ10(九五戦)やキ48(九九双軽)、キ61(飛燕)の設計主務者となる土井武夫がいた。1927年(昭和2年)3月31日、東京帝国大学を卒業[3]。東京帝国大学大学院に進み、1929年(昭和4年)3月に大学院課程を修了する。

同年7月に航空評議会嘱託1930年(昭和5年)6月より東京帝国大学に置かれた航空研究所に研究生として加わり[4]1934年(昭和9年)10月から航空研究所嘱託となる。航研機では胴体・尾翼・脚の設計、性能試験および飛行計画を担当。1937年(昭和12年)5月17日、航空研究所技師に任ぜられる[5]1938年(昭和13年)5月15日に航研機は周回長距離飛行10,651.011kmを達成し世界記録を樹立した。

1940年(昭和15年)、東京・ニューヨーク間の親善飛行を目的とするA-26の設計主務者となる。1941年(昭和16年)7月18日、東京帝国大学助教授を兼任[6]1944年(昭和19年)夏、谷一郎助教授と特殊滑空機(後の桜花)の風洞実験による基礎設計を行なう。なお、7月4日にはA-26が16,435kmの周回長距離飛行を成し遂げたが、戦時下であり国際航空連盟による公認を受ける事はなかった。

1945年(昭和20年)3月10日、東京帝国大学教授に任ぜられる[7]と共に、航空研究所員に補される[8]。同年に工学博士博士論文の題「飛行機と基礎形決定並びに飛行試験に於ける螺旋不安定の検討に就て」 。1946年(昭和21年)、GHQの指令により日本の航空活動が禁止されたことから、航空研究所が官制廃止となり退官。

1947年(昭和22年)に航空研究所時代の同僚であった粟野誠一日本大学教授の誘いを受け、日大旧工学部(現・理工学部)教授に着任。

1952年(昭和27年)サンフランシスコ講和条約発効により日本の航空活動が許可され、航空活動再開とともに、大学研究室の学生らと二人乗り軽飛行機N52を製作開始。1953年(昭和28年)日本航空学会会長に就任(-1954年)。

1955年(昭和30年)日本大学機械工学科に航空専修コース設置、航空工学の専門教育を開始。

1957年(昭和32年)中型機の開発を目的とした財団法人輸送機設計研究協会(通称・輸研)が設立され、木村は初代技術委員長に就任。同年、日本航空学会会長に再就任(-1958年)。

1958年(昭和33年)135馬力の4人乗の軽飛行機N58に着手し製作。1962年(昭和37年)にはN62を開発。160馬力4人乗りで、伊藤忠航空整備と共同開発の軽飛行機。


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