木村清松
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木村 清松

生誕 (1874-04-07) 1874年4月7日
日本 新潟県五泉町(現・五泉市)
死没 (1958-01-14) 1958年1月14日(83歳没)
日本
墓地多磨霊園
国籍 日本
出身校北越学館東北学院ムーディー聖書学院
職業伝道者牧師
宗教キリスト教会衆派
配偶者亀井
家族岩村清四郎(実弟)
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木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 1958年1月14日)は、日本の巡回伝道者、牧師ナイアガラの滝を「自分のお父さんのものだ」と言ったことで話題になった。「キリストに虜われし清松」と呼ばれていた。伝記を書いた岩村清四郎は実弟。
生涯中田重治、内村鑑三、木村清松、再臨運動を始めた頃、1918頃

1874年、新潟県五泉町(現:五泉市)に地酒の醸造業者の家に生まれる。1889年、村松高等小学校を卒業する。1890年北越学館に入学する。1891年1月11日に堀貞一により日本基督教会新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)で洗礼を受ける。1892年仙台東北学院に入学する。

1894年6月に渡米する。1895年アメリカ救世軍に入隊して、士官学校に入隊するが、神学上の問題で8ヶ月で辞める。メソジストのジャパニーズ・ミッションという寄宿舎に入舎して、アンフレス夫人に英語個人教師をしてもらう。同じ、教師に森永太一郎松岡洋右が師事していた。1896年M・C・ハリスの紹介で、太平洋大学に入学する。1899年ムーディー聖書学院に入学する。1901年按手礼を受ける。

1902年3月に帰国して、9月に結婚する。1905年満州で伝道し、その後世界一周して帰国する。1914年、千人伝道のために渡米する。1916年に郷里に五泉教会を設立する。1918年中田重治内村鑑三らと一緒に、再臨運動を始める。

1924年より日本組合基督教会天満教会の牧師になり、1937年まで務める。1930年、妻の亀井が死去するが、翌年9月に再婚する。1958年1月14日死去。多磨霊園に埋葬される。
逸話

1908年アメリカバファロー市の教会で説教に招かれた後、ナイアガラ瀑布を見物に言ったとき、米国人からが「こんな大きな滝は日本にはないでしょう」といわれたのに対して、「ナイアガラの滝は、俺のお父っさんが創ったのだ。」と語った。帰りに電車の停留所でも同じ内容で伝道したことが、デトロイトの新聞に載り、「この日本人はナイヤガラの持ち主である」と誇大に書かれた。そのことで有名になり、「ナイヤガラの持ち主の息子」の講演会をアメリカ各地で行った。[1]
脚注^ 『木村清松(少年少女信仰偉人伝)』教会新報社、1983年、212-214ページ

作詞

『聖書めいもくづくし
』--鉄道唱歌の旋律で聖書の66巻の題名を覚える歌。

参考文献

岩村清四郎『基督に虜われし清松』1934年

河井清治『木村清松(少年少女信仰偉人伝)』教会新報社、1983年

『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年










きよめ派
指導者

ルーツ

ピューリタン - シュペーナー - 敬虔主義 - フレンド派 - ジョン・ウェスレー - D・L・ムーディー - ジョージ・ホウィットフィールド - ジョナサン・エドワーズ - チャールズ・フィニー - A・B・シンプソン
松江バンド

バックストン - ウィルクス - 竹田俊造 - 堀内文一 - 笹尾鉄三郎 - 松野菊太郎 - 秋山由五郎 - 御牧碩太郎 - 柘植不知人 - 土肥修平
ホーリネス

中田重治 - 中田かつ子 - 中田あやめ - チャールズ・カウマン - レテー・カウマン - アーネスト・キルボルン - 三谷種吉 - 山崎亭治 - 米田豊 - 車田秋次 - 小原十三司 - 小原鈴子 - 一宮政吉 - 菅野鋭 - 野辺地天馬 - 金森通倫 - 小出朋治 - 小出忍 - 森五郎 - 江賀寅三 - 小林和夫 - 尾花晃 - 村上宣道 - 松木祐三 - 千代崎秀雄 - 峯野龍弘 - 安倍豊造 - 辻啓蔵 - 辻宣道 - 蔦田二雄 - 蔦田公義 - 藤本栄造 - 藤本満
米国メソジスト

メリマン・ハリス - 本多庸一 - 赤澤元造 - 釘宮辰生 - 阿部義宗 - 結城無二三 - 都田恒太郎 - 渡辺善太
自由メソジスト教会

河辺貞吉 - 河辺満甕 - 野田秀
救世軍

ウィリアム・ブース - 山室軍平 - 山室武甫 
福音伝道教団


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