木村昌福
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木村 昌福
知床特務艦長時代
渾名ショーフク
生誕1891年12月6日
日本 静岡県静岡市
死没 (1960-02-14) 1960年2月14日(68歳没)
日本 千葉県千葉市
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1913年 - 1945年
最終階級 海軍中将
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木村 昌福(きむら まさとみ、1891年明治24年)12月6日[1] - 1960年昭和35年)2月14日)は、日本海軍軍人。最終階級海軍中将静岡県生まれ。

現場叩き上げの指揮官として太平洋戦争の海上戦闘で数々の武勲を立てたが、特に「奇跡の作戦」といわれた『キスカ島撤退作戦』を指揮し、5千名あまりの日本将兵の無血撤退を成功させた事績で名高い。
略歴

静岡県静岡市紺屋町で代言人(現在の弁護士に相当)の父・近藤壮吉と母・すずの次男として生まれる[1][2]。生後すぐに木村家(母の実家、元鳥取藩士)の養子となり[1]、木村家の籍に入ったが(このため本籍は鳥取県鳥取市)、引き続き静岡の近藤家で養育された。

父の壮吉は立憲改進党の党員で政治好きであり、1910年(明治43年)に選挙に失敗して財産を失い、各地を流浪して1916年(大正5年)に下関で客死した[2]。母のすずは、東京女子高等師範学校1期生の才媛であり、夫が財産を失った後は、女子美術学校(女子美術大学の前身)の教員、帝国女子医科専門学校(東邦大学の前身)の舎監を務めて家計を支えた[2]

旧制静岡師範学校附属小学校、静岡県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)を経て[1]海軍兵学校第41期入校[1]。席次は入校時120名中84番、卒業時118人中107番。同期に草鹿龍之介大田実市丸利之助田中頼三らがいる。

開戦時は巡洋艦鈴谷」艦長[1]1943年2月に第3水雷戦隊司令官に着任。ビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後第1水雷戦隊司令官に着任。7月にはキスカ島撤退作戦を成功させる。1944年にはレイテ島挺身輸送作戦「多号作戦」を二度指揮して成功させ、さらにミンドロ島の米上陸地点への突入作戦「礼号作戦」をも成功させた。

その後、海軍兵学校防府分校長、防府海軍通信学校長(兼任)として終戦を迎える。
人物像

あだ名は名前を音読みにした「ショーフク」。トレードマークは、顔面からはみ出したカイゼル髭。大変な酒豪で若い頃から家に帰れば酒ばかり飲んでいたというが、一方で謡曲茶道の心得もあったという。

海軍兵学校の卒業成績(ハンモックナンバー)が下位で、かつ海軍大学校甲種学生を経ていない[注 1]。人事においてハンモックナンバーが重視される帝国海軍では目立つ存在ではなかったが、太平洋戦争開戦時には熟練した「水雷屋」として一定の評価を得ていた。水雷艇長・掃海艇長を3度、駆逐艦長を5度、駆逐隊司令を3度務めており、いわゆる「水雷屋」のコースそのものを歩んでいる[3]。しかし、「水雷屋」の要件である水雷学校高等科学生の履歴がなく、海軍士官としての専門を持たない「ノーマーク士官」であった[3]海軍省軍令部での経験が無い艦隊勤務一筋の実戦派提督であり、勇猛果敢な上に豪放磊落な性格の人柄で知られ、部下をむやみやたらに叱ることもなく、常に沈着冷静な態度であったので将兵からの信頼は厚かったと言われる。

鈴谷」艦長時代にベンガル湾での通商破壊戦において敵の輸送船(民間船)を撃沈する際に乗員を退去させてから沈めるという人道的配慮を見せた[1]。この際、自艦の機銃指揮官が射撃命令を出そうとしたとき、艦橋から身を乗り出して「撃っちゃあいかん、いかんぞぉ!」と大声を出して制止した[1]

ミッドウェイ海戦では、所属する第七戦隊(司令官栗田健男中将)と共に攻略部隊支援隊として参加。4空母が沈んだことで混乱した連合艦隊からの第七戦隊だけでの同島砲撃命令を受けて突入を開始。しかし到着直前に命令は撤回され合流指示が届き、逆に同戦隊は敵前に孤立する羽目になる。全速で戦場離脱、本隊への合流を図る第七戦隊だが、不運にも米潜水艦と遭遇、これを回避しようとした際に命令伝達が混乱し、僚艦の「最上」と「三隈」が衝突、最上は大破してしまう。栗田は上級司令部に報告するが返事はなく、何時までも敵前に居ては戦隊全てが全滅してしまうと判断、健在な鈴谷と旗艦「熊野」は引き続き本隊合流に向かい、最上と三隈は味方勢力圏への退却を決断する。その後護衛の駆逐艦「朝潮」「荒潮」が補給を済ませたうえで反転し最上、三隈の救援に赴き、敵機の空襲で大破した三隈の乗員を救助している。一説には、木村の指揮する鈴谷は「我機関故障」と偽って戦隊と離れ、大破漂流する僚艦「三隈」乗員救助に当たり、多くの命を救ったともいう話もある[1]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかしこの証言は「鈴谷」運用長のみのもので、当時の記録には鈴谷が戦隊と別れた記録はなく、救助された「三隈」乗員で「鈴谷」に直接救助されたと証言している者はいないため信憑性は低い[独自研究?]。尚記録上では「荒潮」が救助した「三隈」の崎山釈夫艦長以下生存者を、本隊合流後に「鈴谷」が収容したとされている。

その他にも数々の海戦に参加しており、ビスマルク海海戦では護衛部隊指揮官として参加。任務には失敗し、艦橋で敵攻撃機の機銃掃射により左腿、右肩貫通、右腹部盲貫銃創を負い倒れるが、最後まで指揮を行った[1]。この際、信号員が咄嗟に挙げた「指揮官、重傷」の信号旗を「陸兵さんが心配する」と叱りつけて下げさせ、「只今の信号は誤りなり」と訂正させたというエピソードも残っている[1]

キスカ島撤退作戦では、隠密作戦に必要な濃霧が発生している天候を待ち続け、作戦を強行する事はしなかった[1]。1回目の出撃ではキスカ島の目前まで進出しながらも、霧が晴れた為突入を断念。強行突入を主張する部下たちに「帰ろう、帰ればまた来られるから」と諭して帰投し、状況をよく判断した指揮を行った[1]


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