木村拓也
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この項目では、プロ野球選手について記述しています。その他の同名の人物については「木村拓也 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

木村拓哉」あるいは「木村拓」とは別人です。

木村 拓也広島時代
(2004年2月19日、日南市天福球場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地宮崎県宮崎郡田野町(現:宮崎市
生年月日 (1972-04-15) 1972年4月15日
没年月日 (2010-04-07) 2010年4月7日(37歳没)
身長
体重173 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション内野手外野手捕手
プロ入り1990年 ドラフト外
初出場1992年9月29日
最終出場2009年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


宮崎県立宮崎南高等学校

日本ハムファイターズ (1991 - 1994)

広島東洋カープ (1995 - 2006)

読売ジャイアンツ (2006 - 2009)

監督・コーチ歴


読売ジャイアンツ (2010)

国際大会
代表チーム 日本
五輪2004年
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オリンピック
男子 野球
2004野球

木村 拓也(きむら たくや、1972年4月15日 - 2010年4月7日)は、宮崎県宮崎郡田野町(現:宮崎市)出身のプロ野球選手内野手外野手捕手・右投両打)、コーチ。愛称は「キムタク」。

アテネオリンピック野球の銅メダリスト。
経歴

高校時代は捕手を務め、宮崎県立宮崎南高等学校では1年夏の甲子園(70回大会)で1勝、3年春には5打席連続三塁打、高校通算35本塁打の記録を持つ。遠投120メートルの強肩捕手として鳴らしていた。

父親は旧・田野町町議会議員を長く務めた地元の名士である[1]
日本ハム時代

1990年オフ、捕手としてドラフト外日本ハムファイターズに入団。しかし、開幕時の支配下登録の当時の60人枠から漏れ、一度は任意引退選手扱いとなったことがあった。

本職の捕手としての出場機会に恵まれなかったことから、他のポジションを探し、1992年に俊足と強肩を買われて外野手に転向[2]
広島時代

1994年オフに長冨浩志投手との交換トレードで広島東洋カープに移籍。正田耕三の後釜候補として二塁手に就き、以後内野の守備も兼ねるようになる。1996年オフにスイッチヒッター転向に取り組み、1997年よりスイッチヒッターデビューした[3]。同年秋季キャンプから故障がちな野村謙二郎の控えとして遊撃手に挑戦。これが大きな転機となる。

1998年、公式戦で遊撃手として守ったほかに代打の切り札として活躍、盗塁も14個記録してスーパーサブとしての役割を果たした。

1999年には一時捕手への再転向案が浮上し、公式戦でも4試合捕手を守った。この頃よりユーティリティープレイヤーとなり、この年だけで投手・一塁手以外の全ポジションを守っている。同年は広島市民球場のバックスクリーンにプロ初本塁打を放つなどバッティングも向上し、2000年には一番打者として初の規定打席に到達しただけでなく、打率2割8分8厘、10本塁打、30打点、165安打の好成績を残すなど10年目にしてブレイクした。以降は3年連続して130試合出場するなど、チームにとって欠かせない存在となる。

2001年は2番東出輝裕とのコンビでシーズン通じて1番打者で活躍し、自己最高の45打点をマークするも、引っ張り中心のスイングが目立つようになり、加えてリードオフマンとしては三振が多い点も課題で、最も打席数の多い1番という条件を考慮しても、129個もの三振を喫している。

2002年は東出の故障により、それまで二塁・中堅での起用が主であったが、遊撃での起用も増えた。打撃面での成績は前年を下回った。2003年には東出が二塁へコンバートされることになったため、木村が遊撃へ回る案も出たが、アンディ・シーツの獲得により実行はされなかった。しかし、東出から二塁のポジションを奪還し、自己最高の13本塁打を放っただけでなく、センター前に渋く打ち返すシュアな打撃にも磨きがかかり、打率も2割8分を超えた。シーズン通して二塁を主に守っていたが、三塁や外野、シーツが退いた場合は遊撃の守備にもついた。

2004年にはアテネオリンピック野球日本代表に選出(詳細は後述)。10月9日の対横浜28回戦では三浦大輔の前に三重殺(記録はセンターフライ)を喫している。このシーズン以降は若手選手の急成長に加え、足や腰を故障するなどして、打撃や走塁で満足なプレーを残せず、スタメン出場の機会は著しく減少。シーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、手術を受けた。

2005年は打順は一定しないもののほぼ二塁・遊撃を守る。レギュラーに定着しかけていたが腰痛を発症し、8月上旬に離脱した。1ヶ月後復帰したが、以後はスタメン起用は大幅に減った。2006年シーズン、新任のマーティ・ブラウン監督の若手起用の方針により開幕二軍スタートとなり、全く一軍での起用がなく、シーズン途中ではあったが本人の希望もあって6月5日に山田真介外野手との交換トレードで巨人へ移籍。広島OBの江夏豊は「広島は大きな損失をした」と木村の移籍を惜しんだ。なお、広島時代の応援歌「足の速さは 誰にも負けない 風を切り走れ 木村拓也」のフレーズは、2007年シーズン後に広島に移籍してきた同姓の木村昇吾(2015年退団)に引き継がれた。
巨人時代

「出番を求めてトレードを志願したのに、トレード先が戦力の充実している巨人だった」と、トレードに懐疑的な考えを抱いていたが、移籍後間もない同年6月7日の対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)で早くも一軍登録され、4回表に指名打者でスタメンだった原俊介の代打で初出場。試合途中に李承Yの負傷退場もあり、三塁手中堅手としても出場し、いきなりの活躍を見せる。シーズン終了後の契約更改では、代打出場での打率が高く代打の切り札として起用され、多くの選手の年俸が引き下げられる中、年俸5000万円(推定、以下同)から、200万円アップの5200万円となった。

2007年シーズンは、二塁手として加入した新外国人のルイス・ゴンザレスが開幕早々に離脱したこともあり、対右先発時のスタメン二塁手として活躍。慣れた二塁での起用だったこともあり、この年の100試合以上に出場した二塁手の中では関本健太郎の守備率.994に次ぐ守備率.993を記録し、守備能力の健在ぶりをアピールした。


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