木村弥生
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日本政治家木村 弥生きむら やよい
総務大臣政務官就任時
生年月日 (1965-08-11) 1965年8月11日(58歳)
出生地 日本 東京都江東区
出身校フェリス女学院大学文学部
慶應義塾大学看護医療学部
前職木村勉衆議院議員秘書
日本看護協会政策秘書室長
所属政党(自由民主党→)
無所属
称号看護師
保健師
養護教諭二種
親族父・木村勉(衆議院議員)
妹・高橋恵海(元江東区議会議員)
江東区長
当選回数1回
在任期間2023年4月23日[1] - 2023年11月15日
衆議院議員
選挙区(比例北関東ブロック→)
比例近畿ブロック京都3区
当選回数2回
在任期間2014年12月19日[2] - 2021年10月14日
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木村 弥生(きむら やよい、1965年昭和40年〉8月11日 - )は、日本の政治家看護師東京都江東区長(1期)、衆議院議員(2期)を歴任した。父は元衆議院議員の木村勉。妹は元江東区議会議員の高橋恵海[3]
来歴

東京都江東区出身。第一亀戸幼稚園、江東区立第一亀戸小学校[4]東邦大学付属東邦中学校・高等学校を経て、1988年にフェリス女学院大学文学部国文学科を卒業後、学生時代の交際相手と結婚し、専業主婦になる。25歳の時に出産し、長男が高校入学後に離婚した[5]

1999年3月、東京15区の衆議院議員の柿澤弘治が都知事選に出馬するため辞職。同年4月11日に行われた同選挙区の補欠選挙に父親の木村勉が自民党公認で立候補し初当選した。同月、父親の公設秘書となる[6]。やがて、これから看護の時代が来ると考えて看護師を志すようになり、派遣社員として働きながら学費を貯めた[7]

2004年、慶應義塾大学看護医療学部2年次に編入。2007年、同卒業。看護師免許を取得し、慶應義塾大学病院婦人科に入職。その後、2008年に、大学時代の恩師が会長を務めていた日本看護協会に入り広報部で取材活動に従事。同年から会長付政策秘書、2013年から広報部課長、2014年から政策秘書室長を務めた[8][9][10][11]
衆議院議員

2014年12月1日、自民党は第47回衆議院議員総選挙比例北関東ブロックに木村を追加公認した[12]。木村の搭載名簿は単独34位だった。12月2日、公示。12月14日、投開票。自民党は同ブロックで8議席を獲得。重複立候補者のうち選挙区で落選した6人はすべて比例復活で当選。残り2議席は単独33位の尾身朝子と34位の木村に充てられ、ともに初当選を果たした[13]

2016年2月16日、週刊文春による不倫報道を受けて京都3区宮崎謙介が議員辞職し、自民党を離党した。自民党京都府連は4月10日から16日にかけて、次期衆院選京都3区の候補者を選ぶ公募を実施した(同選挙区補選候補擁立は見送り)。4月20日、党府連は候補者に木村を内定した[14]

このあいだ自民党は3月18日に「待機児童問題等緊急対策特命チーム」の初会合を実施。木村が座長を務めた[15]

2017年10月22日第48回衆議院議員総選挙において、京都3区及び比例近畿ブロックに重複立候補。希望の党泉健太に敗れるも比例復活で再選(惜敗率89.717%)[16]

2019年9月13日第4次安倍第2次改造内閣総務大臣政務官情報通信放送行政郵政行政郵政民営化などの担当[17])に就任。

2021年10月31日第49回衆議院議員総選挙・京都3区は木村、立憲民主党公認の泉、日本維新の会新人の井上博明の3人が立候補し、泉が小選挙区で当選した。自民党は比例近畿ブロックで8議席を獲得。登載順位単独1位の奥野信亮と同2位の柳本顕が比例で当選し、重複立候補した順位3位の6人の候補者が復活当選した。木村は8番目の惜敗率(69.095%)により落選した[18][19]
2023年江東区長選挙詳細は「2023年江東区長選挙」を参照

2022年9月10日、母親の介護を理由に国政を引退すると自民党京都府連大会で表明。同年秋、京都市伏見区観音寺町から出身地の江東区に戻った[20][21][22]

同年11月24日、江東区長の山ア孝明翌年の区長選挙に向けて5選出馬を表明。翌25日、自由民主党の推薦を受けて出馬することが報じられた[23]

2023年1月12日、木村は都庁で記者会見し、区長選挙に無所属で立候補する意向を表明した[24]。木村を擁立したのは東京15区選出の柿沢未途であった。しかしそのことは伏せられた[25][注 1]。出馬会見には板津道也、福馬恵美子、鬼頭達也、吉田要の4人の江東区議会議員が同席し、柿澤弘治の元秘書で、柿沢未途の後援会事務総長を務める板津が代表してスピーチした[26][27][28][29]。これに伴い、政治団体「木村弥生後援会」の主たる事務所を江東区亀戸木村勉の自宅に変更した[30]

同年2月、柿沢の秘書は区議の一人に「本人がごあいさつに行きたいのですが」と電話した。「金の話なんだろ」とかまをかけると秘書は敢えて否定しなかった。区議選も区長選と同日に行われる予定だったことから、区議が「お金だったら要らない。票をくれるという話なら会ってもいい」と返答すると、それぎり柿沢側から連絡はなかった[31]。3月中旬、柿沢は、別の保守系区議と面会し「区長選では木村さんをよろしくお願いします」と持ちかけた[32]。板津道也は、区長選に向けた木村の遊説に参加し、マイクを持てば山アの多選を批判した[27][29]

同年3月27日、山ア孝明は病院に救急搬送され入院。入院先から電話で、長男で都議の山ア一輝に「区長選には出られない」と伝えた。同日に開かれた孝明の支援者向けの決起集会で、一輝は、孝明が健康上の理由で区長選への立候補を取りやめることを明かした[33][34]。翌28日、自民党の区議は全員一致で、一輝に区長選へ立候補を要請すると決めた[34]

同年4月上旬、木村の支援を頼まれた前述の保守系区議は事務所を開所。このとき柿沢側から「陣中見舞い」として現金の提供を受けた[32]

同年4月7日、自民党は衆議院小選挙区で「10増10減」の対象となる1都14県のうち、新たに東京の3つの選挙区で公認候補となる支部長を決めたが、新東京15区(江東区)については依然として柿沢未途を選ばず、空白区とした[35]

同年4月8日、木村は選挙事務所を開設。事務所開きには、前年の参院選東京都選挙区から無所属で立候補した乙武洋匡が出席した[36][37]。乙武は街頭演説に参加するほか、木村のYouTubeチャンネルに応援メッセージを送るなど、木村を積極的に支援した[36][38]

同年4月12日、山ア孝明が膀胱がんによる急性腎不全のため死去[39]。同日、山ア一輝は正式に出馬表明をした[40]。孝明と仲が良かった党都連会長の萩生田光一は、柿沢に一輝を支援するよう協力を要請するが、柿沢はこれを拒んだ。萩生田は大声で「できないのなら、15区に参議院議員を鞍替えさせてもいいんだぞ」と、丸川珠代を示唆して恫喝した。続いて怒鳴り声で15区の支部長ポストを公募で決める可能性を伝えた[41]

同年4月16日、江東区長選挙が告示。木村、自民党の推薦を受けた山ア一輝、元国税庁職員の猪野隆、日本共産党・社民党の支持を受けた政治団体「区民によりそう江東区長を誕生させる会」副代表の芦沢礼子の4人が立候補した。前回選まで山崎孝明の推薦を決めていた公明党は当該選挙では自主投票を選んだ[42]。山アの出陣式では、党都連会長代行の丸川珠代が「自民の推薦で区長選を戦うのは山崎候補ひとり」と木村をけん制した。その後も山ア陣営には、茂木敏充党幹事長、菅義偉元首相らが続々と応援演説に駆け付け、萩生田は木村を「知らない間に京都を投げ出し区へ戻った。立候補の大義はない」と批判した。一方、木村には野田聖子稲田朋美らがかけつけ支援した。都民ファーストの会の都議の白戸太朗も木村の支援に回った[42][43][44]。柿沢は表立った支援を避けたが、関係者は「(木村陣営の)選挙戦の全てを柿沢氏が指示していた」と証言している[45]

同年4月23日、投票。4月24日、開票。木村が他の3候補を破り、江東区では初の女性として公選第4代区長に初当選した[46]。山アの陣営関係者は取材に応じ、「終盤に流れが変わった。柿沢氏の支持者の動きが影響した」と答えた[42]。5月1日、木村は初登庁した[47]。区長選と同日に行われた区議選で次点で落選した板津は柿沢の後援会事務総長を続け、木村の後援会事務総長も兼任した[48][49][27]

同年7月11日、区長選に際してYouTubeに掲載した有料広告をめぐり公職選挙法違反の疑いがあることが発覚[50]し、10月24日に東京地検特捜部による強制捜査を受けた[51]。同月26日、会見を開き区長辞職を表明[52][53]。会見後、山本香代子区議会議長に辞職願を提出し受理され、同年11月15日をもって辞職した。なお、辞職に先んじて同年10月31日から大塚善彦副区長が職務代理者を務めている[54][55][56]


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