この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆
をお願いします。(2019年1月)この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年1月)
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}
「木曾氏」のその他の用法については「木曾氏 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
木曾氏(きそし)は、日本の氏族の一つ。
美濃国恵那郡の木曾谷にあった大吉祖荘と小木曾荘を支配していた国衆である(後に木曾谷は信濃国筑摩郡に移されるが、その具体的な時期には諸説あり)。 木曾氏(源姓) 源義仲が木曾谷の中原兼遠の庇護下に置かれ、通称「木曾次郎」と名乗ったことに始まる。子の義高の代に滅亡した。義仲の子で存在が確実なのは義高のみである。 木曾氏 信濃国の藤原流木曾氏は、南北朝時代から室町時代後期にかけて木曽谷を領した国人領主。戦国時代の木曾氏は、かつて治承・寿永の乱で木曽谷から発して上洛を果たした木曾義仲の子孫を自称した(義仲の子である義宗(夭折)の末裔と自称)。実際には本姓は藤原氏(上野国沼田郷
清和源氏義賢流の木曾氏
笹竜胆
本姓清和源氏義賢流
家祖木曾義仲
種別武家
主な根拠地信濃国木曾谷
著名な人物木曾義仲
木曾義高
凡例 / Category:日本の氏族
一族
源義仲(木曾義仲)
源義高(木曾義高、清水冠者義高)
延慶本『平家物語』『尊卑分脈』では「源義基」と表記[1]。
覚一本『平家物語』では「源義重」と表記。
長門本『平家物語』『木曽考』『木曽殿伝記』『西筑摩郡誌』では「源義隆」と表記[2]。
『源平盛衰記』では「清水冠者」とのみ記され諱は記されていない。
『曽我物語』では「源義衡」と表記。
源義重(『西筑摩郡誌』では二男とし、木曾氏の祖とする)
源義基(『木曽考』・『木曽殿伝記』では三男とし、木曾氏の祖とする[3]) 文献によると、義仲が戦死すると、家臣であった今井氏、高梨氏、楯氏
源義宗(『尊卑分脈』では四郎とされ、『西筑摩郡誌』では後の義茂)
源基宗(『高遠記集成』では義仲の五男とし、木曾氏の祖とする)
子孫
葦原検校(木曾義長) - 義仲の子孫と称した江戸幕府の奥医師。木曾氏の再興を目指した人物[5]。
のちの時代に信濃国の木曾氏が子孫を称する。
後裔に清水氏、山下氏などがある[6]。
信濃国の藤原流木曾氏
九曜
本姓称・清和源氏義仲流
藤原北家秀郷流?
家祖木曾基宗?
種別武家
主な根拠地信濃国木曽谷
著名な人物木曾家村
大石信重
木曾義元
木曾義在
木曾義康
木曾義昌
上松義豊
木曾義利
上松義次
凡例 / Category:日本の氏族
概要
出自父子が存在したといわれる。以降は義茂の子・基家、家仲、家教と木曾家直系が相続されたという。
『西筑摩郡誌』(1973年) では初代を木曽義仲として2代目を二男義重とし、天福2年(1233年)、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経から義重が木曽と仁科を賜り、自身は仁科を領し、弟の四郎義宗に木曽を譲ったとある。また、木曽を譲られた義宗は沼田に居を構えて「沼田義茂」を称したとしている。
江戸時代に木曽谷を実質支配した尾張藩の木曽代官・山村良景が編纂した『木曽考』(大日本地誌大系刊行會)では、義仲を祖としている点は同じだが、2代目は三男義基(幼名・万寿丸)としている。
また、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}文献によると[要出典]三男義基は元暦元年(1184年)の粟津の戦いで義仲が戦死すると、家臣であった今井氏、高梨氏、楯氏、町田・小野沢・萩原・串渕・諸田などに匿われ、群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延びたとされる。