木曽漆器
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木曽漆器

木曽漆器(きそしっき)は、長野県塩尻市木曽平沢(旧木曽郡楢川村平沢)とその周辺で製造される漆器。流れをくむものとして八沢漆器と呼ぶものもある[† 1]

1975年昭和50年)2月17日に経済産業省(当時の通商産業省)の伝統的工芸品に指定された[2]。中心的産地である木曽平沢は、2006年(平成18年)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、毎年6月に木曽漆器祭が開催されている[3]

堅地塗り、堅地漆器ともいい、丈夫で美しいのが特徴で[1]、主な製品には座卓重箱などがある[2][4]
歴史

最も古い伝承としては、室町時代初期の1394年応永元年)、富田(現在の長野県木曽郡木曽町福島八沢)の塗師・加藤喜左衛門が富田山籠源寺に納めたという経箱の漆器で、これにより木曽福島が発祥だとする説がある[1]

また、承応年間(1652年-1655年)には、木曽平沢にすでに漆器業者が10数戸あり、当時の領主・山村甚兵衛が、諏訪明神の建築を名目に檜目手形を発行し、檜材を伐採して漆器の素地用にあてたという[5]

江戸時代中期の元禄年間、中山道京都から江戸の交通の要路となり、毎日多く往来する旅人が土産物として買い求めるようになって、木曽漆器が世に知られるようになった[5]

原材料となる木材は自由伐採であったものが、1708年宝永5年)5月以降「五木伐採停止の令」が出て、存続の危機となった。しかし、当時の代官であった山村家の庇護で、漆器業者へは尾張藩の「檜物手形」を下付され、漆器の木地のための白木6,000駄(1,300トン)の無代伐採が認められた[5]

元禄の頃には、板物の実用品として人気を博し、寛政に入ると京都、大阪、江戸に「木曽物取次受売店」ができていた。職人達は、技術の上達を図るため、当時技術が高いと言われた輪島へ技法の修得に赴いたこともあった。

明治の初め、現在の奈良井駅付近の山間から鉄分を含有した「錆土(さびつち)」という漆との混和に優れた粘土が発見され、堅牢な製品が誕生した。また、手塚定太郎、巣山庄兵衛らの指導者が出て、合理的な木取り法で知られる宋和膳が全国的に売れた[5]

大正前期までには漆器学校も存在していた[6]

1960年代(昭和40年代)の高度成長期、日本全国の家庭の必需品として、座卓、棚物など漆の家具が飛躍的な伸びを示し、木曽漆器の約70パーセントを占めるようになる[5]。また、1970年代(昭和50年代)に国鉄の観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」が始まると、旅館、民宿などに座卓が飛ぶように売れ、それらのほとんどが木曽産のものだったという[5]長野オリンピックのメダル。木曽漆器とセイコーエプソンの精密金属加工技術で製作された[7]造幣さいたま博物館[8] にて展示。

1990年代、生活スタイルの変化により需要が低迷して漆器産業も衰退してきたが、漆器職人達の動きによって、木曽平沢地区に「木曽漆器館」や「木曽くらしの工芸館(木曽地域地場産業振興センター)」が設置され、展示、体験を行うなどして、木曽漆器の振興に努める。塩尻市楢川地区(旧楢川村)の小学校では、1999年平成11年)に2つの小学校の給食で使う食器を全て木曽漆器にし[9]、現在は同地区の中学校でも使用されている[10][† 2]

2006年平成18年)7月5日には、木曽平沢地区が国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された[11][12]

また、2012年平成24年)10月、塩尻市市民交流センターえんぱーくで木曽漆器をテーマにした「第22回ジャパン≪漆≫サミット」が開催され、市立図書館で関連展示が行われた[13][14]


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