木崎村小作争議
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2010年9月)

木崎村小作争議(きざきむらこさくそうぎ)は、新潟県北蒲原郡木崎村(現・新潟市北区)を中心とする地域で起こった小作争議で、「日本の三大小作争議」の一つとして知られ[誰によって?]、また王番田争議(王寺川村を経て現・長岡市)・和田村争議(高田市を経て現・上越市)とともに新潟県の三大小作争議の一つに数えられる。
概要
前史としての三升米事件

新潟県は、県内で産出されるの品質を向上させ、市場での評価を高めるため、1907年より移出米に対する検査を実施し、1916年には生産米検査規則を制定した。この制度は、米の販売価格を向上させるため、地主にとってはメリットがあったが、検査のために必要な負担は生産者である小作農にのしかかっていた。

1922年、県は生産米検査規則を改正し、産米検査をさらに強化した。これにより負担が増加した小作農の不満は高まった。そのため、北蒲原郡を中心に勢力を拡大していた須貝快天率いる農村革新会は、納める米1俵につき3升の米を負担増の補償として地主たちに要求した。地主たちがこの要求を拒否すると、小作農たちは大挙して地主宅に押しかけ、要求をのむように迫った。これが「三升米事件」で、木崎村をはじめ県内における小作争議増加のきっかけとなる事件であった。
小作組合の結成

木崎村小作争議は、須貝快天の影響を受けた小作農たちが1922年11月に、村内の笠柳・横井両部落で小作組合を結成し、市島家をはじめとする地主に対して、小作料を2割減免するよう要求したことに始まる。当初、地主たちはこの要求を拒否し、小作組合の切り崩しを図った。

これに対し、組合側は新組合長・川瀬新蔵の下で要求貫徹のための取り組みを進めた。そして、大字の区長選挙にも候補者を立て、正副区長を小作側で占めるに至った。形勢が逆転する中で地主側は、小作側の要求を認めるようになる。
連合会の結成と対立の深化

しかし、隣の濁川村に居を構え、新潟県地主協会の会長でもあった真島桂次郎だけは、小作側の要求を突っぱね、小作料請求訴訟を起こした。これに対して、笠柳・横井小作組合は、弁護士井伊誠一とも相談して対応を検討し、日本農民組合(日農)に加盟して対抗姿勢を示した。そして、1923年11月には、村内の他部落で結成された小作組合とともに、木崎村農民組合連合会を結成した。

片山哲らも出席した創立大会で、連合会は小作料の納め方の改善とその要求実現までの小作料延納を決議し、関係する地主たちに要求書を提出した。組合の勢力拡大を目の当たりにして、大部分の地主たちはこの要求を承認したが、真島ら強硬派の地主はこれを拒否した。そして、1924年3月に小作料未納を理由として、小作農の耕地立入禁止の仮処分裁判所に請求した。裁判所はこれを認め、仮処分が執行された。

連合会の川瀬らは上京して、日農へ支援を要請するとともに、記者会見を行った。争議は全国紙で報道され、注目を集めることとなった。日農は三宅正一浅沼稲次郎稲村隆一らの活動家を送り込んだ。また、仮処分執行の最終日に割腹を図る者が出るなど情勢が緊迫したため、裁判所は和解を勧告、地主・小作間で和解が成立した。
鳥屋浦事件

和解に不服であった真島ら6人の地主は、1924年5月に再び訴訟を起こし、小作料請求・耕作禁止・土地返還を求めて法廷で争う構えを示した。また、地主側は組合に属さない小作農を協調的な奨農会に組織化しようと図った。

この訴訟について、新潟地方裁判所新発田支部は、1926年4月に地主側勝訴の判決を下した。


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