木塚忠助
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木塚 忠助1955年
基本情報
国籍 日本
出身地佐賀県唐津市
生年月日1924年4月23日
没年月日 (1987-12-16) 1987年12月16日(63歳没)
身長
体重168 cm
60 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手
プロ入り1948年
初出場1948年4月4日
最終出場1959年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


旧制唐津中学校

門司鉄道局

南海ホークス (1948 - 1956)

近鉄パールス (1957 - 1959)

コーチ歴


近鉄バファローズ (1962 - 1966)

東京オリオンズ (1967 - 1968)

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木塚 忠助(きづか ただすけ、1924年4月23日 - 1987年12月16日[1])は、佐賀県唐津市[1]出身のプロ野球選手内野手)。右投右打。
概要

昭和20年代を代表する遊撃手。1948年南海に入団すると、長らく不動の一番・遊撃手を務め、ベストナイン遊撃手を7回獲得した。強肩・俊足でバカ肩、イダ天とも称された。通算盗塁数479個は歴代4位(引退当時はプロ野球最多記録)。
経歴
プロ入り前

唐津中学(現・佐賀県立唐津東高校)出身。野球を始めたのは3年からと遅かったが、5年次には佐賀県大会で1試合16奪三振を記録する好投手となり、職業野球からも誘いを受けた。しかし警察官の父親の勧めで、鉄道省門司鉄道局に進む。

門鉄では三塁手を務め、俊足・強肩・強打の三拍子揃った活躍を見せた。職場にあったインクでバットを赤く染めていたことから「門鉄の赤鬼」の異名を取った[2][3]。ライバルの八幡製鐵との試合は常に荒れ模様となり、木塚のラフプレーを引き金に乱闘騒ぎとなり、警察官が出動する騒ぎになったこともあったという[4]
現役時代

1947年オフ、同年に門鉄からプロ入りした中谷信夫の絡みで、南海ホークス、戦前に金鯱軍のマネージャー時代に既に勧誘していた高田が球団代表を務める中日ドラゴンズといったプロ球団から勧誘を受ける。ほかにも大学からも誘いがあったとされる。結局、中谷のプロ入り時の縁で門鉄監督の石川正二が南海に好意を持っていたこともあって、木塚は南海に入団した[5]

1948年は1年目ながら7番・遊撃手としてレギュラーに定着、規定打席(37位、打率.236)にも達する。同年から6年連続でベストナインに選出された。

2年目の1949年には打率.303(リーグ12位)と打撃が開花。また同年から4年連続で盗塁王を獲得[1]。この4年間で246盗塁、成功率は.855の高さだった[6]

1949年9月29日大陽戦第1試合(阪急西宮球場)で、1試合6失策(遊撃手で3、三塁手で3)を記録した。直後の第2試合で阪神本堂保次が二塁手として1イニング4失策を記録したことから、グラウンドの整備不良が主な原因と考えられる。ただ失策は多く1948年、1949年、1951年にリーグ最多失策を記録した。

1950年には2番打者に定着し、打率.301(8位)を記録。同年6月5日西鉄戦では7回に1イニング3盗塁(日本タイ記録)を記録している[7]。この年はシーズン78盗塁を残した。ホークスの先輩・河西俊雄を抜く当時のプロ野球記録であり、まだ記録を伸ばすこともできたが、東急フライヤーズ代表の猿丸元が「チームの為ではなく、自分のために走っている」と語っているのを聞き、それ以上盗塁をするのが馬鹿馬鹿しくなり残り試合で一度も盗塁をしなかった[4][8]

1951年には打率.319(5位)を記録。一塁手・飯田徳治、二塁手・山本、三塁手・蔭山和夫らと百万ドルの内野陣を形成した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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