木原 光知子
木原 光知子, 1964
生年月日 (1948-04-05) 1948年4月5日
生誕地兵庫県明石市
没年月日 (2007-10-18) 2007年10月18日(59歳没)
死没地神奈川県平塚市
身長167cm
体重59kg
獲得メダル
日本
アジア競技大会
金1966年アジア競技大会100m自由形
金1966年アジア競技大会200m自由形
金1966年アジア競技大会4×100m自由形
金1966年アジア競技大会4×100mメドレー
ユニバーシアード
銅1967年夏季ユニバーシアード100m自由形
銅1967年夏季ユニバーシアード400m自由形
テンプレートを表示
木原 光知子(きはら みちこ、1948年4月5日 - 2007年10月18日[1])は元水泳選手で、タレント・実業家・スイミングアドバイザー、「ミミスイミングクラブ」創立者。競技の現役時代、タレント時代前期、実業家としての名前は本名の「木原美知子」となっている。実兄はJU岡山理事長・JU中四国会長を歴任し現在はミミスイミングクラブを経営するK&Mインターナショナル代表取締役の木原信良
。愛称は「ミミ」。身長168cm(1975年7月)[2]。兵庫県明石市で生まれ、岡山県岡山市で育つ。岡山市立南方小学校、岡山市立旭中学校[1]、山陽女子高等学校[1]、日本大学文理学部卒業。
小学6年生の時「水泳選手になってオリンピックに出たい」という作文を書き[3]、中学時代から田中聡子のあとの日本水泳界を背負う最大のホープと騒がれる[4]。100m自由形が主であったが、400m自由形や背泳ぎ、バタフライ、個人メドレーなどでもトップクラスのオールラウンダーであった[4]。進学した山陽女子高校には水泳部がなく、また岡山には冬の間泳げる温水プールはなく、和歌山県白浜や広島県呉市の海上自衛隊の室内プールに通う[5]。
高校在学時に1964年東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となった[4]。競技を引退後は東レの水着モデルを務めるなどタレントに転向[1]。その後、東レ関連会社の役員や自らの水着ブランドや水泳教室を運営するなどビジネス界に進出。40歳を超えてからマスターズ競技に復活し日本記録を樹立している。また各種スポーツ団体や岡山県関連の理事・委員に加え、2005年より日本水泳連盟初の女性理事を務めるなど多方面で活躍していた[1]。
2007年10月13日、神奈川県平塚市内のプールで親子水泳教室の指導中に倒れ、意識不明のまま、平塚市民病院に搬送された[1]。一時は意識を回復したものの、同18日午前1時25分、クモ膜下出血のため死去[1][6]。59歳没。戒名は寶珠院秀泳智照大姉。葬儀は築地本願寺にて社葬で執り行われ、喪主は兄の木原信良が務めた。死去した10月18日に遡って、日本政府より旭日小綬章が贈られた。
2009年10月、岡山県総合グラウンド内に顕彰碑が建立された。
主な競技歴
1962年
岡山で第17回国民体育大会 中学生でありながら一般の部に出場。100m背泳ぎ3位入賞[7]
1963年
第3回全国中学校選抜水泳競技大会 100m自由形、100m背泳ぎ、200m個人メドレーの3種目を制覇
1964年
7月19日 全日本水泳選手権 100m自由形 優勝(1分3秒8 日本新記録)
10月 東京オリンピックに出場。400mメドレーリレー 4位入賞、100m背泳ぎ 落選、400mリレー 落選[8]
1965年
9月 第20回岐阜国体 100m自由形(日本新記録樹立)
1966年
7月 全国高校水泳競技大会(青森) 100m・200m自由形 優勝
8月 全日本水泳選手権 100m・200m自由形 優勝
12月 第5回アジア大会(バンコク) 100m・200m自由形 優勝、400mリレー、メドレーリレー 優勝
1967年
メキシコプレオリンピック 100m自由形 金メダル、200m自由形 銀メダル
7月 全国大学女子大会 100m・400m自由形 優勝
8月 全日本水泳選手権 200m・400m自由形 優勝
マスターズ
1986年 第1回世界マスターズ水泳大会