きのした けいすけ
木下 恵介
『キネマ旬報』1959年2月特別号より
本名木下 惠介
(旧名)木下 正吉[1]
生年月日 (1912-12-05) 1912年12月5日
没年月日 (1998-12-30) 1998年12月30日(86歳没)
出生地 日本・静岡県浜松市
死没地 日本・東京都港区
職業映画監督・脚本家
活動内容1933年:松竹蒲田撮影所に入社
1943年:監督デビュー
1951年:日本初の長篇カラー映画『カルメン故郷に帰る』を制作
1964年:松竹退社、テレビドラマ界に進出
1969年:四騎の会を結成
配偶者なし
著名な家族弟・木下忠司(作曲家)
妹・楠田芳子(脚本家)
主な作品
『カルメン故郷に帰る』
『二十四の瞳』
『楢山節考』
受賞
ゴールデングローブ賞
外国語映画賞
1954年『二十四の瞳』
1956年『太陽とバラ』
ブルーリボン賞
脚本賞
1954年『日本の悲劇』『恋文』『愛の砂丘
木下 惠介(きのした けいすけ、新字体:恵介、1912年12月5日 - 1998年12月30日)は、日本の映画監督・脚本家。本名は同じ(旧名:正吉)[1]。監督としての映画の名前の表記は1960年代には「恵介」が混在している。
真面目で抒情的な作風で知られ、数多くの映画を制作した後、テレビ・ドラマにも進出した。弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。
略歴1950年代初め
1912年(大正元年)12月5日、静岡県浜松市(現在の浜松市中央区)伝馬町で食料品店(漬物製造)の「尾張屋」を営む父・周吉、母・たまの8人兄弟の4男として生まれる[2]。周吉は一代で財を成した人物であった。
1919年(大正8年)、浜松尋常高等小学校(現:浜松市立元城小学校)に入学。在学中にさかんに映画を見る。その後浜松工業学校(現浜松工業高等学校)紡績科を卒業後、上京する。
1933年(昭和8年)、オリエンタル写真学校を経て、松竹蒲田撮影所現像部に入社。その後撮影部に移り、撮影技師桑原昴の助手となる。
1936年(昭和11年)、新たに作られた松竹大船撮影所に移り、島津保次郎に引き抜かれて島津の助監督となり、島津の『浅草の灯』や吉村公三郎の『暖流』などを担当する。
1940年(昭和15年)10月に召集令状を受け取り、11月に名古屋の中部第13部隊輜重兵第3聯隊補充兵に入隊する[3]。中国各地を転戦したが、翌年に作業中の事故で左側アキレス腱鞘炎と左目角膜出血を患って野戦病院に入院、後に内地送還され帰国した。
1943年(昭和18年)、『花咲く港』で監督デビューし、ともに終生のライバルとして日本映画界を支えてゆくこととなる黒澤明とともに山中貞雄賞を受賞する。
1951年(昭和26年)、日本初の長編カラー映画となる『カルメン故郷に帰る』を発表し、NHK映画ベストテン第1位、日本映画文化賞を受賞。
1954年(昭和29年)には『二十四の瞳』[4]でブルーリボン賞作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞。同年のキネマ旬報ベストテンでは同作と『女の園』が黒澤の『七人の侍』を抑えて1位・2位を独占する。
1958年(昭和33年)、『楢山節考』を発表。ヴェネツィア国際映画祭に出品され金獅子賞の有力候補と言われたが、金獅子賞は稲垣浩の『無法松の一生』が受賞した。しかし、この作品はフランソワ・トリュフォーなどの映画人に絶賛された。
1964年(昭和39年)、『香華』の次回作として『戦場の固き約束』を企画するが、興行上の採算性に対する疑義で松竹側からお蔵入りにされるなどの不遇に遭い、撮影所の不正経理を指弾したことなどから会社との関係が悪化する。そして同年、松竹を退社して木下恵介プロダクション(のちドリマックス・テレビジョン[注釈 1])を設立する。テレビドラマ界に進出し、TBSで『木下恵介アワー』『木下恵介・人間の歌シリーズ』などのシリーズを手掛けて多くのテレビドラマを製作した。
1969年(昭和44年)、黒澤明、市川崑、小林正樹と共同プロダクション「四騎の会」を結成した。注目を集めたが、当初発表された4人共同監督による映画は結局実現しなかった。
1976年(昭和51年)、『なつかしき笛や太鼓』以来9年ぶりとなる『スリランカの愛と別れ』で再び映画監督に戻る。これら2作品は東宝で製作。
1979年(昭和54年)には松竹に復帰。
1979年(昭和54年)、『衝動殺人 息子よ』で社会派の一面をみせる。
1981年(昭和56年)、脚本『女たちの戦場』を執筆して映画化を企画するが、会社から内容が暗すぎるという理由で製作中止となる。
1987年(昭和62年)、製作中止になっていた脚本『戦場の固き約束』を出版。中国から松竹との合作で製作企画が出るが、再び製作は中止となった。