木下 保
生誕 (1903-10-14) 1903年10月14日
出身地 日本 兵庫県 城崎郡 豊岡町(現:豊岡市)
死没 (1982-11-11) 1982年11月11日(79歳没)
日本 東京都 新宿区
学歴東京音楽学校
ベルリン音楽大学
ジャンルクラシック音楽
職業声楽家(テノール)
音楽教育者
指揮者
合唱指揮者
オペラ歌手
音楽評論家
作曲家・編曲家
木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月14日 - 1982年(昭和57年)11月11日[1])は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者、合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した。目次 兵庫県城崎郡豊岡町(現:豊岡市)に三人兄弟の次男として生まれる。父・松吉は特産「柳行李」製造卸業。1920年(大正9年)3月上京。ヴァイオリンを川上淳、声楽を澤崎定之に師事。1922年(大正11年)4月東京音楽学校予科入学。1926年(大正15年)同校本科声楽部を卒業し研究科進級。ペツォード、ネトケ=レーヴェに師事[1]。 ベートーヴェン『第九』は、学生時代に東京音楽学校定期演奏会での公式初演で合唱団メンバーとして参加し、1927年(昭和2年)5月新交響楽団(現「NHK交響楽団」の前身)による初演奏「ベートーヴェン没後百周年演奏会」でソリストとしてデビュー。以降戦前の主だった演奏で常にソリストとして名前が記され、引退まで210回を越えている[1]。 1928年(昭和3年)3月東京音楽学校研究科修了。同年12月同校大礼奉祝演奏会ベートーヴェン『ミサ・ソレムニス』初演。以降、同校定期演奏会にてバッハ『マタイ受難曲』初演の他、新交響楽団等主要交響楽団のソリストとして活躍する[1]。1931年(昭和6年)にレコードデビュー。1933年(昭和8年)4月ドイツ国立ベルリン音楽大学(現:ベルリン芸術大学)に留学。ヴァイセンボルン 1931年(昭和6年)9月東京音楽学校助教授に任官。武蔵野音楽学校講師兼任[1]。1935年(昭和10年)留学からの帰国後、母校の教壇に復帰。1940年(昭和15年)3月東京音楽学校教授任官。1942年(昭和17年)3月東京音楽学校主任教授任官。GHQからの指令で1946年(昭和21年)8月東京音楽学校を退官。1951年(昭和26年)9月広島大学音楽学部教授任官。1953年(昭和28年)11月東京学芸大学教授に転任。1955年(昭和30年)2月(大阪)、9月(東京)「木下保楽壇生活30年祝賀・門下生謝恩音楽会」開催。『恩師を讃える歌』(大谷智子裏方作詞/團伊玖磨作曲)が生まれ、以降、門下生に歌い継がれる。1967年(昭和42年)1月公開レッスン「やまとことばを美しく」を開催。3月東京学芸大学教授退官。4月洗足学園大学音楽学部教授、フェリス女学院短期大学、武庫川女子大学、大阪音楽大学非常勤講師に就任。
1 経歴
1.1 歌手として
1.2 音楽教育者として
1.3 指揮者・合唱指揮者として
1.4 オペラ歌手として
1.5 音楽評論家として
1.6 作曲家・編曲家として
1.7 死去
2 家族
3 “やまとことば”について
4 受賞歴
4.1 褒賞
4.2 更なる栄誉
5 エピソード
6 主な楽譜
6.1 編著・監修
6.2 編曲
7 主なディスコグラフィー
7.1 歌唱
7.2 指揮
8 脚注
経歴
歌手として
音楽教育者として