木下俊定
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 凡例木下 俊定 / 小出 俊定
時代安土桃山時代
生誕不詳
死没慶長7年10月15日1602年11月28日
改名木下俊定 → 小出俊定
別名定俊、通称:信濃守、木下信州
戒名慈徳院叟林幻化[2]
慈徳院殿信州太守林叟幻化禅定門[3]
官位従五位信濃
主君豊臣秀吉秀頼
岡山藩
氏族木下氏小出氏
父母父:木下家定、養父:小出吉政
兄弟勝俊利房延俊、俊定、小早川秀秋俊忠秀規周南紹叔
義兄弟:吉英吉親 ほか
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木下 俊定(きのした としさだ)は、安土桃山時代武将大名岡山藩家臣。従五位信濃守。

小出吉政(大和守)の養子[2]で、小出俊定とも云う。
略歴

木下家定の四男[4]。『木下家譜』では生母を雲照院とするが[2]、『寛政重修諸家譜』では某氏とする。

豊臣秀吉に仕えて、丹波国内で1万石を与えられた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、小出秀政、吉政と同じく西軍に属して、俊定は三尹らと大津城の戦いに参加した。戦後、改易されて俊定の所領は没収されるが、10月24日に大津攻めで活躍した家臣大槻小右衞門に感状を出している[5]

その後は弟の秀秋の岡山藩に寄食して、備前国内で和気郡など5,000石を知行したが、慶長7年(1602年)10月15日に病死した。法名は慈徳院叟林幻化。[6]
脚注[脚注の使い方]^ 閲覧可能。
^ a b c 『木下家譜』(東京大学史料編纂所所蔵[1])による。
^ 前川和彦『豊臣家存続の謎 : 秀頼父子は九州で生きていた 戦国の秘史』日本文芸社、1981年、冒頭カラー頁。 ASIN B000J7TEQA
^ 『尾張群書系図部集』では四男を俊忠とし、俊定については表記がない。
^ 国史研究会 1916, pp.37-38
^ 三日後の慶長7年(1602年)10月18日、小早川秀秋も死去している。

参考文献

桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、50頁。 ASIN B000J9GTRU

堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 木下氏」『寛政重修諸家譜』。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577559/132 国立国会図書館デジタルコレクション。 

国史研究会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 關原軍記大成』 三、国史研究会〈国史叢書〉、1916年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441735/25 国立国会図書館デジタルコレクション。 


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