朝鮮通信使
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狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年承応4年・孝宗6年

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使(ちょうせんへいれいし)と言う。

朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶え、安土桃山時代に李氏朝鮮から豊臣秀吉に向けても派遣された。しかし、その後の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)によって日朝間が国交断絶となったために中断されて、江戸時代に再開された。

広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。「朝鮮通信使」という表現は研究者による学術用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節と同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現をもっぱら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。

江戸幕府の外交政策において、朝鮮は琉球王国と並んで正式な国交のある通信国とされていた。その他の中国の、ポルトガル(南蛮)、オランダ・イギリス(紅毛)といった国々は貿商国と定義されており、貿易は行いつつも幕末まで正式の外交関係はなかった。このため朝鮮通信使は江戸幕府の威信を示す機会であるとともに、文化交流のきっかけにもなった[1]
室町時代の朝鮮通信使海東諸国全図

室町時代の朝鮮通信使は、倭寇への禁圧対策を日本に要請することが当初の目的だった。倭寇による朝鮮半島での活動は13世紀には記録があり、15世紀以降は明が海禁政策によって私的な貿易を禁じた影響もあって大規模化した。海賊行為は日本国内でも問題になっており、1410年応永17年・太宗10年)には朝鮮の使者が瀬戸内海で海賊に持ち物を奪われる事件も起きている[2]。日本では、14世紀以降に朝鮮との貿易に進出する者が増えて、朝鮮で官職を得る受職倭人、朝鮮各地の港で暮らす恒居倭人、有力者の使いとして訪れる使送倭人と呼ばれる者もいた。朝鮮では15世紀から日本人を応接する施設として倭館を建設する一方、倭寇対策として1419年(応永26年・世宗元年)には対馬を攻撃する応永の外寇も起きた。のちに対馬の対馬宗氏は、朝鮮の倭寇対策に協力して、通信使の交渉役となった[3]

通信使の目的には日本の国情視察も含まれており、この時代のもっとも著名な記録は、1443年正長元年・世宗25年)の使節で書状官をつとめた申叔舟が編纂した『海東諸国紀』である。この書は朝鮮の日本や琉球に対する外交の基礎情報となった[4]。申叔舟は6代の君主に仕えて要職につき、世祖の時代に日本や琉球との外交規定の基本も作った。1475年文明7年成宗6年)に死去する前には、成宗に対して日本との善隣関係を維持するよう進言した[5]。また同時代の日本では、僧の瑞渓周鳳が日本初のまとまった外交文書として『善隣国宝記』を著している。
室町時代の通信使の編成、行程

李朝実録』に通信使の編成が記されており、1477年文明9年・成宗8年)の記録によると、正使・副使・書状官の3使を中心として、輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊などで構成されている。朝鮮からの使者が派遣されると、博多赤間関兵庫の3か所で一時的に拘留され、その間に京都の室町幕府に使者が派遣されて入国・入京の許可を得てから先に進んだ。この間、博多では九州探題または少弐氏が、赤間関では大内氏が使節の対応にあたり、使節を次の目的地へと護送する役割を果たした。また、朝鮮側としても使節の安全な往来のみならず、倭寇禁圧には九州や瀬戸内海の海上勢力に影響力を持つ九州探題・少弐氏・大内氏の協力は不可欠であり、拘留期間は彼らとの政治交渉の場になった。15世紀に入り3者の抗争の結果、大内氏が博多をはじめとする北九州一円に勢力を広げると、博多で政治交渉を行うこともなくなり、1443年嘉吉3年)の使節は対馬から直接に赤間関を目指している[6]

通信使は、世宗のもとで室町時代に3度来日した。この他には、1420年応永27年・世宗2年)に応永の外寇の後処理交渉のために特別に派遣された使節や、途中で海賊に遭遇して任務を打ち切って帰国したために通信使に数えられない1422年(応永29年・世宗4年)や1432年永享4年・世宗14年)の例なども知られている[6]

1459年長禄3年・世祖5年)の通信使は、足利義政への回答と『大蔵経』と『法華経』の贈呈を目的としていたが、海難によって日本に到着しなかった。成宗の時代に再び派遣が計画されたが、日本の政情不安のため延期となる。1479年(文明11年・成宗10年)の通信使は対馬に到着したものの、日本では少弐氏と大内氏が交戦下にあり、宗貞国の助言もあって中止となった。正使が任じられたものの計画が中止されたこともあり、1413年(応永20年・太宗13年)と1475年(応永20年・太宗13年)がこれにあたる。中止の理由は使者が途中で死亡したことや渡航の危険とされるが、大名や国人が将軍の名前を詐称して勝手に交渉する偽使の横行や日朝貿易の不振により、必要性が減殺したためだと説明されることもある。

その後の通信使は豊臣政権まで約150年間にわたって中断したが、対馬の宗氏をはじめとする西日本の大名と朝鮮との貿易は続いていた[7]
室町期朝鮮通信使履歴

特に特記なき事項については、下関市立歴史博物館(2018)を参照[8]

回数年目的・名称等
第1回1429年正長2年)通信使正使 朴瑞生 副使 李芸 書状官 金克柔

将軍就任祝賀, 前将軍致祭 足利義教の引見
第2回1439年永享11年)通信使正使 高得宗 副使 尹仁甫 書状官 金礼蒙

旧交 足利義教の引見
第3回1443年嘉吉3年)通信使正使 卞孝文 副使  尹仁甫 書状官 申叔舟

将軍就任祝賀, 前将軍致祭 足利義教の引見

豊臣秀吉に派遣された通信使
1590年(天正18年・宣祖23年)の通信使

織田信長は明・朝鮮との通商貿易を図り、年使を派遣したが朝鮮はこれに応じず、次いで政権を掌握した豊臣秀吉は、1587年天正15年・宣祖20年)の九州平定後に、対馬の宗義智に命じて交渉にあたり、朝鮮国王李?の来日を求めた。宗義智は、交渉の途ではじめから服属は求めず、秀吉による天下統一の祝賀使節を朝鮮に求めた。こうして1590年(天正18年・宣祖23年)に通信使が派遣されて、12月3日旧暦11月7日)に秀吉に謁見した。名目としては秀吉の日本統一の祝賀だが、朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめることも目的だった。秀吉は通信使を服属使節と思い、朝鮮国王に対して明の征服を先導するように求める書を渡す。通信使側では書きかえを求めたが、受け入れられなかった[9]。当時の正使黄允吉と副使金誠一は対立関係にあり、異なる報告をしたために政争の原因となった。西人党に属する黄允吉は侵攻の意思ありと報告し、一方で東人党の金誠一は侵攻の意思なしと報告をした。当時の政権では東人党が力を持っており、副使側の意見が採用された。文禄の役の際に一気に平壌まで侵攻されたのは、この金誠一の報告に従い、なんら用意をしていなかったためともされる[10]
1596年(慶長元年・宣祖29年)の通信使

文禄の役において、日本軍は朝鮮軍や明軍と戦い、やがて和議の機運が高まる。1596年慶長元年・宣祖29年)の朝鮮通信使は、日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた明の冊封使に同行したものであった。冊封使は楊方亨が正使、沈惟敬が副使に任命された。朝鮮では当初は通信使派遣に反対したが、派遣しなければ再度侵攻の可能性があるという議論になり、朝鮮の正使は黄慎(行護軍兼敦寧都正)、副使は朴弘長(大邱府使)の随行が決まった。


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