朝鮮義勇隊
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朝鮮義勇隊
画像
朝鮮義勇隊の記念写真(1938年)
各種表記
ハングル:?????
漢字:朝鮮義勇隊
発音:チョソン ウィヨンデ
日本語読み:ちょうせんぎゆうたい
ローマ字:Joseon Uiyong-dae
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朝鮮義勇隊(ちょうせんぎゆうたい)は、朝鮮抗日義勇軍あるいは国際旅団と呼ばれ、金元鳳の主導で、1938年10月10日漢口で結成された独立軍である。朝鮮民族前衛同盟の傘下団体に分類される。
創設

1937年7月の日中戦争勃発は朝鮮独立運動家に独立を勝ち取る絶好の機会と認識された[1]。これにより各団体で連合戦線問題が提起され、2つの連盟体が結成された[1]。民族陣営の韓国国民党、韓国独立党、朝鮮革命党を中心とした韓国光復運動団体連合会(光復陣線)であり、もう1つは金元鳳の朝鮮民族革命党を中心に光復陣線に参加しなかった無政府主義団体である朝鮮革命同盟と共産主義性向の団体である朝鮮民族解放同盟の3団体で連合した朝鮮民族戦線連盟(民族戦線)であった[1]

民族戦線は武装部隊の組織と対日抗戦参加を目標にし、これを実行に移した[2]。1938年6月2日、金元鳳が入学させた中央陸軍軍官学校星子分校の生徒90余名が訓練を終えて民族戦線本部がある漢口に到着した[3]。これを契機に金元鳳は、日中戦争勃発1周年となる1938年7月7日、中国軍事委員会に「民族戦線の青年盟員と星子分校卒業生で朝鮮義勇軍を組織し、これらを各戦区に配属させ一線工作を担当する」という趣旨で朝鮮義勇軍の組織を正式に提案した[3]。この提案は蒋介石の裁可を経て中国軍事委員会にて、全ての抗日勢力の連合を前提として、これから組織する部隊は大規模ではないので軍ではなく隊とすること、部隊を軍事委員会政治部管轄下に置くことを条件に承認された[3]

これにより民族戦線側では光復陣線に連合を提案し、朝鮮民族革命党から離脱した朝鮮青年前衛同盟(前衛同盟)の合流を推し進めた[4]。光復陣線はこれを断ったが、前衛同盟はこれに同調した[4]

前衛同盟は団体を表面化しないまま秘密組織として朝鮮民族革命党に加入して活動していた団体で、国内で共産主義運動をしていた韓斌、崔昌益許貞淑が加わり、急進左傾化性向を帯びていた[4]。彼らは1938年5月の朝鮮民族革命党第3次全党代表大会をきっかけに金元鳳の路線に不満を抱いた崔昌益、金学武などの主導の下、星子分校35名と共に全49名が脱党、前衛同盟の組織を公開と同時に別動組織として朝鮮青年戦時服務団を組織し、独自の勢力を維持した[4]。しかし金元鳳の説得と指導者である崔昌益と金学武の意見衝突、資金難などの理由から、彼らは同年9月に民族戦線に合流した[4]

1938年8月、日本の反戦運動家である青山和夫が「国際義勇軍第1隊組織計画案」を提出[5]。計画案は政治部長陳誠から?介石に上申されて「大体実行可能である」と認定され、9月には政治部秘書長賀衷寒(中国語版)が、青山の計画案に基づいて行われた朝鮮義勇軍の組織に関する調査結果とその実施手順を陳誠に上申して同意を得た[5]。青山の原定計画に基づき、国際問題研究所長王?生の第2次の意見を参酌して組織化に着手した[5]

1938年10月1日から朝鮮義勇隊を組織するための実務作業が始まり、中国軍事委員会と民族戦線の合同で推進された[4]。中国軍事委員会政治部員5名と民族戦線側では理事で所属団体代表者である金元鳳(朝鮮民族革命党)、崔昌益(朝鮮青年前衛同盟)金奎光(朝鮮民族解放同盟)、柳子明(朝鮮革命同盟)の計9名が参加し、規約綱領の用意及び経費問題、組織方式などの実務協議を進めた[4]

中国革命27周年記念日の1938年10月10日、漢口で朝鮮義勇隊の成立式が行われた[6]。さらに10月13日には漢口の中華青年基督教会で朝鮮義勇隊成立宣言遊芸大会をもって成立宣言を発表した[6]。朝鮮義勇隊は中国関内の朝鮮独立運動陣営で組織された最初の軍事組織だった[6]。金元鳳、崔昌益、金星淑、柳子明などが委員会政治部員として参加した。朝鮮義勇隊は、本部は総隊長の金元鳳を含む13名、第1区隊は隊長朴孝三、副隊長金世日、政治指導員王通を含む43名、第2区隊は隊長李益星、副隊長陣元仲、政治指導員金学武を含む33名の、合計89名で成り立っていた[7]。朝鮮民族革命党党員と朝鮮青年前衛同盟盟員が主要構成員であり、第1区隊は全員朝鮮民族革命党の党員で、第2区隊は朝鮮青年前衛同盟員及びその他団体の所属員で構成されている[8]。彼らの多くは黄埔軍官学校、朝鮮革命幹部学校、洛陽軍官学校、星子分校など中国の各種軍官学校を通じて軍事訓練を受けていた[8]

軍事委員会政治部の管轄となり、朝鮮義勇隊発足前は政治部第2庁(庁長:康澤(中国語版))に指導が委ねられていたが、のちに政治部第1庁に任されることになった[9]。結成時は武漢防衛戦の最中であったため、しばらくは武漢衛戍司令部の指揮を受け、また政治部第3庁の間接指揮を受けることになった[10][11]

発足した朝鮮義勇隊を実際に動かしていたのは国民政府軍事委員会政治部であった[10]。隊内には人事、編制、経費などを協議する指導委員会が置かれ、委員会主任は賀衷寒であり、賀を除いた7人の指導委員会委員のうち3人は政治部から派遣されていた[10]。そのうち周威堂と潘文治は設立前から派遣され、準備活動に奔走していた人物であった[10]。指導委員会のメンバーは、中国からは賀衷寒、周威堂、潘文治、矯漢治、朝鮮からは金元鳳、金奎光、金学武、柳子明であった[12]

計画では隊員数を100人とし、政治部からは経常費5640元、臨時費6600元の計1万2240元が支出され、発足後も経費や武器弾薬が継続的に中国政府から支給された[10]
任務と成果
宣伝

朝鮮義勇隊の主な活動は、日本軍に対する偵察と占領地区の情報収集、日本人捕虜の取り調べと思想工作、日本軍に対する政治宣伝工作、中国人に対する抗日宣伝工作であった[10]。朝鮮語・中国語・日本語を駆使できる隊員が多かったため、中国軍の作戦行動に協力して、日本軍に対して伝単をばら撒いたり、ポスターを張り付けたり、拡声器を利用した放送を行なった。主な宣伝内容は「抗日戦争は決して日本人民を消滅しようとするものではなくて、中国の生存と独立とを求める戦いである、戦争の責任者は日本の軍閥である」、「日本による侵略戦争は国家の利益のためではなくて、少数の特権階級、つまり野心を持つ軍閥・財閥・官僚・政客の利益のためである、戦争は民衆に巨大な損失と苦しみを与えるものである」、「戦争は、中国の必勝、反ファシズム国家の必勝、日本・ドイツ・イタリアの必敗に終わる」、「中国の政府、軍隊は捕虜に対する優待政策を取っており、覚醒して投降すれば必ず優待を受けられる」であった[13]。戦地民衆に対しては、敵に利用されることなく機会を見て宣伝する方法と敵の情報を得る方法、中国軍や遊撃隊をどのように助けて対敵作戦をするかなどを教育した[14]。このような宣伝や教育工作は場合によって、敵前もしくは敵地に浸透して行われたが、それは前線指揮官の作戦上の必要性によって決定された[15]。1938年から1940年までの間に、6個戦区13個省を転戦し、5万部の宣伝文書を印刷配布、51万枚の伝単を配布し、40万部の標語を貼った[16]。効果的な宣伝活動を行い、各戦区司令長官部から多くの称賛を受けた[17]
機関紙

朝鮮義勇隊は出版物を創出し、中国抗戦と朝鮮独立運動を宣伝した[18]。1939年1月21日、中国語刊行物『朝鮮義勇隊通訊[注釈 1]』が出版[18]


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