朝鮮共産党
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日本統治下朝鮮政党朝鮮共産党
?????
指導者金在鳳
姜達永(朝鮮語版)
朴憲永
成立年月日1925年4月17日
解散年月日1946年11月23日
後継政党 朝鮮労働党
本部所在地京城府
政治的思想・立場共産主義
マルクス・レーニン主義
極左
国際組織コミンテルン
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朝鮮共産党
各種表記
ハングル:?????
漢字:朝鮮共産黨
発音:チョソン コンサンダン
日本語読み:ちょうせんきょうさんとう
ローマ字:Chos?n Kongsantang
英題:Communist Party of Korea
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朝鮮共産党(ちょうせんきょうさんとう)は、かつて朝鮮に存在した共産主義政党1925年日本統治下京城府(現・ソウル特別市)で結成された。略称は朝共。

1920年代の朝鮮共産党は日本の官憲の弾圧によって党中央の壊滅と再建を繰り返しており、3年余の存続期間は第1次?第4次朝鮮共産党に区分される。1929年にコミンテルンの承認を取り消されたが、朝鮮において再建運動が続けられた。また、党は日本満洲中国東北部)在住の朝鮮人の間にも組織的な広がりを持ち、これらの地域の社会主義運動にも影響を及ぼした。

第二次世界大戦後の1945年9月に朝鮮共産党は再建され、1946年に南北二つの「労働党」に再編された。現在の北朝鮮の指導政党である朝鮮労働党の前身組織であり、かつて金日成も北部朝鮮分局の書記長としてメンバーだったが、現在の北朝鮮当局(朝鮮労働党)による「正史」は、金日成が指導した抗日パルチザンに革命の伝統と正統性を求めており、1920年代の朝鮮共産党については「分派集団」として存在自体を否定している[1]
前史最初の「共産党」をつくった李東輝

朝鮮人の社会主義運動は、ロシア革命後にシベリア在住の朝鮮人によってはじめられた。「共産党」の名を持つ最初の朝鮮人団体(高麗共産党(朝鮮語版))も、シベリアでの運動から誕生した。また、日本に留学した朝鮮人のなかにも社会主義思想を受容し、運動に身を投じる者が現れた。
二つの高麗共産党

1918年6月、李東輝・朴鎮淳(朝鮮語版)らがハバロフスクで韓人社会党(朝鮮語版)を結成。1920年のコミンテルン第2回大会には韓人社会党から出席した朴鎮淳が民族・植民地問題委員会の討論に加わり、執行委員にも選ばれている。李東輝が大韓民国臨時政府(1919年結成)に参加したことから韓人社会党は拠点を上海に移し、1921年に「高麗共産党」を称した。彼らのグループは「上海派(朝鮮語版)」と呼ばれる。

これと前後して[2]ボリシェビキ党員の南萬春・金哲勲・呉夏黙(朝鮮語版)らがイルクーツクロシア共産党韓族部[3]を結成。1921年に同じく「高麗共産党」を称した。彼らのグループは「イルクーツク派(朝鮮語版)」と呼ばれ、上海にも支部を置いた。イルクーツク派には金在鳳朴憲永らが属した。

「上海派」は民族解放を優先課題とし、「イルクーツク派」は社会主義革命を優先課題とした。両派は激しく対立し、1921年にはスヴォボードヌイで朝鮮人民族主義団体の軍事組織やソ連の労農赤軍を巻き込んでの衝突に発展した(自由市惨変)。

1922年1月から2月にかけてモスクワで開かれた極東諸民族大会(極東勤労者大会)には、朝鮮人代表団が参加し、同大会参加者148人のうちの約3分の1(54人)を占めた。呂運亨金奎植など民族主義陣営の人士も参加したが、社会主義系の各派からも李東輝・朴鎮淳・朴憲永・金丹冶(朝鮮語版)などが参加した。このとき朝鮮から参加した少壮のメンバーが、のちの朝鮮共産党結成の中心メンバーとなる。

1922年12月、コミンテルンはコリア・ビューロー(朝鮮語版)(「高麗局」とも訳される。のちにオルグ・ビューロー)を設置し、上海・イルクーツク両派の対立解消に乗り出すとともに、朝鮮内に支部(共産党)を創立するための工作を行った。しかし両派の抗争に加え、朝鮮内の社会主義者が外部からの介入に反発したことから、コミンテルン主導の党創設は失敗している[4]
日本における朝鮮人社会主義者の運動

日本における朝鮮人留学生には社会主義思想を受容する者もあらわれ、1921年11月に黒濤会(朝鮮語版)が発足した。黒濤会参加者には朴烈゙奉岩金若水らが挙げられる。

黒濤会は1922年に分裂し、朴烈ら実行派(アナキスト派)が風雷会(のち黒友会)を、金若水・金鍾範ら議論派(ボリシェビキ派)が北星会を結成した。
朝鮮における社会主義運動と共産党結成準備

1919年三・一独立運動後の朝鮮では、民族運動の高揚に加え、「文化政治」を標榜する朝鮮総督府当局が民族運動の抑圧を一定程度緩和したことも相まって、労働運動・農民運動も活発化した。

1920年4月、張徳秀・車今奉(朝鮮語版)らによって朝鮮労働共済会が結成された。「労働社会の組織と制度の改善」を最終目的として掲げた朝鮮労働共済会は各地に支会を広げ、1921年3月には約1万7000名の会員を擁するに至った[5]。1922年には朝鮮労働共済会から離脱する形で姜達永(朝鮮語版)らによる朝鮮労働連盟会が結成された。同会は「階級的意識による一致団結」を明確に打ち出し、1923年にはメーデーを期してストライキを打った[5]。1924年には167の労働団体と約4万5000名の加入者を抱えた朝鮮労働総同盟が発足した。後年(1929年)、モスクワの国際レーニン学校で撮影された共産主義者たち。前列左から2人目が金丹冶、その右隣が朴憲永。2列目右から3人目が朱世竹(朴憲永の妻)。また、3列目最右端にホー・チ・ミンがいる。[6]

インテリ層の間でも思想団体が結成された。主要なものとして、ソウル青年会(朝鮮語版)、北風会(朝鮮語版)、火曜会(朝鮮語版)が挙げられ、これらは朝鮮における社会主義運動のセクトとなった。

ソウル青年会(ソウル派)は1921年に結成された青年運動団体で、金思国、李英(朝鮮語版)、張徳秀らが主要メンバーである。ソウル青年会を母体に社会主義運動のセクトとなったソウル派は、李東輝ら上海派と連絡を持った。その出自からもソウル派は青年運動に対して強い影響力を持ち、1924年には朝鮮青年総同盟を結成している。ソウル派はその後の朝鮮共産党の歴史の中で主流とはならなかったが、活動家のうち崔昌益が中国亡命を経て戦後に北朝鮮の高官となっている(のち粛清)。

北風会(北風派)は、1922年に朝鮮に帰国した金若水が北星会を基盤につくった組織である。1924年にはソウル青年会と北風会の社会主義者を中心に、労働者・農民組織として朝鮮労農同盟が結成されている。

火曜会(火曜派)は1923年に「新思想研究会」として発足したもので、1924年に「火曜会」に改称した。イルクーツク派の影響の強い団体であり、1923年頃に朝鮮に帰国した金在鳳・朴憲永らが火曜会に加入している。また、日本留学から帰国しだ奉岩も参加している。会員にはほかに金燦、金丹冶(朝鮮語版)がいた。火曜派は各種団体に影響力を及ぼしつつ、北風会系と連携して共産党の結成を準備した。
1920年代の朝鮮共産党共産党員の裁判を報じる『東亜日報』(1927年9月13日付)。
第1次朝鮮共産党

1925年4月17日京城府(現:ソウル)の中華料理店「雅叙園」において、金在鳳ら18人によって朝鮮共産党が結成され、責任秘書(書記長に相当)に金在鳳を選出した(第1次朝鮮共産党)。また、翌4月18日には朴憲永゙奉岩らによって、青年組織として「高麗共産青年会」(略称「高麗共青」あるいは「共青」)が結成された。もとより非合法の組織であり、秘密裏の結党であった。
朝鮮共産党(第1次)


責任秘書 - 金在鳳

各部責任者 - 趙東?(組織部)、金燦(宣伝部)、金若水(人事部)、鄭雲海(労農部)、兪鎮煕(朝鮮語版)(政治経済部)、朱鍾健(調査部)


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