朝霞駐屯地(あさかちゅうとんち、JGSDF Camp Asaka)は、日本の東京都練馬区・埼玉県朝霞市・和光市・新座市にまたがる陸上総隊司令部・東部方面総監部等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。面積91.0ヘクタール(ha)。
所在地は練馬区だが、練馬区には練馬駐屯地もあり、朝霞駐屯地と練馬駐屯地は6.5kmほどの距離にある。 駐屯地司令は東部方面総監部幕僚長が兼務(東部方面総監部の移駐前は第1施設団長が兼務)。国道254号(川越街道)に接する朝霞門の右側には陸上自衛隊広報センターが所在する。また、隣接する朝霞訓練場では3年に一度、自衛隊記念日に中央観閲式が実施される。 日本陸軍 アメリカ陸軍(キャンプ・サウス・ドレイク) 警察予備隊 陸上自衛隊 陸上自衛隊朝霞駐屯地
概要
沿革詳細は「キャンプ・ドレイク#キャンプ・サウス」を参照予科より早く市ヶ谷台から神奈川県座間市(現在のキャンプ座間と座間駐屯地)に移転した陸軍士官学校(本科、相武台)の皇族舎を、1978年に陸自が朝霞駐屯地に移設し、現在は振武臺記念館として主に陸軍予科士官学校関連史料を展示している。手前は予士の正門門柱。駐屯地構内の池「びわ湖」は東京ゴルフ倶楽部三番ショートホールの名残りである[2]。
1932年(昭和7年)5月:朝霞駐屯地を含む一帯に、東京ゴルフ倶楽部が朝霞にゴルフ場を開設。
1940年(昭和15年):陸軍省により買収。東京ゴルフ倶楽部は狭山へ移転。
1941年(昭和16年)10月1日:陸軍予科士官学校が東京都市ヶ谷(市ヶ谷台、現在の防衛省市ヶ谷地区(市ヶ谷駐屯地))から移転。
1943年(昭和18年)12月9日:昭和天皇行幸、学生達に対し「将来益々武を振るえ」という思いから振武臺(振武台)と命名。
1945年(昭和20年)9月:第二次世界大戦敗戦のためアメリカ陸軍が接収(キャンプ・サウス・ドレイク)、第1騎兵師団司令部が進駐。
1952年(昭和27年)6月20日:第906輸送中隊、第907輸送中隊が新編[3]。
1954年(昭和29年)
7月1日:第906輸送中隊は第302輸送中隊に、第907輸送中隊は第303輸送中隊に称号変更[4]。
9月29日:第302輸送中隊が旧立川駐屯地(現:東立川駐屯地)へ移駐[4]。
9月30日:第303輸送中隊が旧立川駐屯地(現:東立川駐屯地)へ移駐[4]。
1960年(昭和35年)3月15日:朝霞駐屯地が開設[2][5]。
陸上自衛隊輸送学校が立川駐屯地から移駐し、輸送学校長が駐屯地司令に職務指定[6]。
第1建設群が豊川駐屯地から移駐。
朝霞駐屯地業務隊が新編[7]。
1961年(昭和36年)8月17日:部隊新編等。
第1建設群を母体として第1施設団が新編され、第1施設団長が駐屯地司令に職務指定[8]。
自衛隊体育学校が設置。
1962年(昭和37年)
8月:第302ダンプ車両中隊が新編。
11月26日:第31普通科連隊が習志野駐屯地から移駐。
1963年(昭和38年)
1月31日:分屯地として入間分屯地を設置[9]。
8月10日:第302ダンプ車両中隊が福島駐屯地に移駐[10]。
1964年(昭和39年)
3月24日:東部方面武器隊が編成完結。
10月:朝霞駐屯地内射撃場を第18回夏季オリンピック東京大会ライフル射撃競技会場として使用[11]。
1966年(昭和41年)
3月29日:第107特科大隊第2中隊が横浜駐屯地から移駐。
8月1日:東部方面音楽隊が練馬駐屯地から移駐。
8月3日:第2高射特科群が下志津駐屯地から移駐。
1967年(昭和42年)8月10日:第2高射特科群主力が松戸駐屯地へ移駐。
1968年(昭和43年)
4月1日:輸送学校隷下に婦人自衛官学生隊が編成完結。
12月20日:婦人自衛官学生隊が婦人自衛官教育隊として創隊、第1教育団隷下に編合。
1971年(昭和46年)
3月25日:第124特科大隊が東部方面隊隷下に編成替えとなり、下志津駐屯地から移駐。
8月21日:朝霞自衛官殺害事件発生。警衛勤務中の自衛官が、新左翼に殺害される。
10月20日:座間キャンプ日米共同使用開始により朝霞駐屯地座間分屯地が開設。
1972年(昭和47年)8月1日:第6高射特科群が第124特科大隊を母体として朝霞駐屯地において東部方面隊直轄部隊として編成完結。
1973年(昭和48年)
1月30日:第6高射特科群が沖縄に移駐開始。
3月25日:第6高射特科群が沖縄に移駐完了。
1975年(昭和50年)3月26日:東部方面輸送隊が新編。
1978年(昭和53年)
3月25日:陸上自衛隊中央音楽隊が芝浦分屯地から移駐、入れ替わりに東部方面音楽隊が芝浦分屯地へ移駐。