朝潮太郎_(2代)
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朝潮 太郎(あさしお たろう、1879年4月19日 - 1961年4月30日)は、愛媛県新居郡(現・西条市)出身で高砂部屋佐ノ山→高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は薦田 長吉(後に坪井)。最高位は大関。身長176cm、体重113kg[1]
人物

20歳の時には、体重の3倍近い荷物を持ち上げる怪力であり、初代朝汐の佐ノ山に勧誘された。しかし、父が反対しすぐには入門できなかった。

父が亡くなると入門、1901年5月に新序出世、四股名は朝嵐長太郎。1906年1月場所、新十両1907年1月場所、新入幕。1909年1月場所、小結1910年1月場所6日目、大関國見山との対戦で、下手投げを打った際、國見山の右膝が脱臼、気付いた朝嵐はそのまま組み止めた。当然勝負検査役も気付いて水入り、土俵下で控えていた横綱常陸山の提案により痛み分けとなり「情けの八百長」と評判になった。

小結に昇進してから一時低迷した[1]が、1910年6月場所、関脇になり朝汐太郎の名を継承。1912年5月場所より、「汐」を「潮」に書き換え。1913年10月22日に高砂襲名が内定していた6代二十山が死去すると高砂部屋の後継者候補として名前が挙がるが、当時まだ平幕であった綾川が対抗馬として名乗りを挙げた。この後継者争いは一門の親方衆、力士、行司をも含めて部屋を真っ二つに割り、裁判沙汰の大騒動となった。綾川派は「朝潮は金に困った佐ノ山によって友綱に売り飛ばされており、所属が高砂にない」とまで主張した。実際はそれを聞いて慌てた2代高砂が買い戻しており、証拠の領収書まで裁判に提出されている。結局年寄は朝潮が二枚鑑札で襲名するに至った[2]。後年朝潮は友綱から帰属を買い戻された経緯から「自分は幸せな男だった」と述懐している[2]。1914年6月場所では当時無敵を誇った太刀山と右四つの相撲。この一戦が評価され、1915年1月場所、大関[1]。絶好調だった1915年6月場所には、途中休場してしまうなど目立った活躍はなく、1919年5月場所を最後に引退。

右を差せば無類の強さを発揮し、「右差し五万石」と呼ばれた[1]

7代東関から弟子を譲ってもらったことも手伝ってか、横綱男女ノ川前田山を育てるなど弟子育成で成果を上げた[2]協会取締の重責も担ったが1932年春秋園事件の責任を取って取締を辞した。1941年12月、前田山に部屋を譲って廃業。しかし1950年に開催された前田山の断髪式では師匠として止め鋏を入れている[3]1961年4月30日、82歳で没。
その他

あかぢ銀行の頭取
渡辺治右衛門が贔屓としていた。金の威勢で呼びつけたが応じなかった朝潮に惚れ込んだ。

博打好きで金庫を抱え博打を打っていた。巡業中に監視役であった綾川に注意され、巡業を放棄する騒ぎになり協会幹部も説得に駆け付けたこともあった。

猪鍋やチャンバラ映画が好きであった。猪鍋は弟子には食べさせず一人で食べていた。

協会取締時代も身長180cm、体重120kgの堂々とした体躯で貫禄十分であったが、晩年は痩せていた。

廃業後は茨城県協和村に隠居していた。亡くなる前年の1960年に小島貞二がインタビューに訪れている。

成績

幕内26場所 98勝64敗25分7預66休、勝率.605

脚注^ a b c d ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p17
^ a b c ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p12
^ 現役中に二枚鑑札で高砂部屋の師匠となっており、その上高砂一門の総帥でもあったため一門の親方は誰も止め鋏を入れることができなかった。

関連項目

大関一覧

外部リンク

ニコニコ写真帳 第一集
大関朝汐写真(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)


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