朝日遺跡
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朝日遺跡
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所在地愛知県名古屋市西区清須市
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度13分06.9秒 東経136度51分04.7秒 / 北緯35.218583度 東経136.851306度 / 35.218583; 136.851306座標: 北緯35度13分06.9秒 東経136度51分04.7秒 / 北緯35.218583度 東経136.851306度 / 35.218583; 136.851306
種類複合遺跡
歴史
時代縄文時代弥生時代古墳時代中世近世
あいち朝日遺跡ミュージアムあいち朝日遺跡ミュージアムで展示されている出土品(重要文化財)。

朝日遺跡(あさひいせき)は、愛知県名古屋市西区から清須市にまたがる[1]縄文時代から江戸時代にかけての複合遺跡。特に弥生時代集落跡は東海地方最大級の環濠集落として知られる。

範囲は東西1400メートル×南北800メートル[1][2]、推定面積80?100万平方メートルに及び、全国でも有数の規模をもつ[3]。最盛期の人口は約1,000人であったと推定される[1]
概要

1929年昭和4年)に当遺跡範囲の一画に位置する貝殻山貝塚を、津島高等女学校教諭の加藤務が発掘調査し、弥生時代の貝塚であることが知られるようになった。その後、昭和20年代(1945年-1954年)から30年代(1955年-1964年)には、個人の研究者や大学による発掘調査が個別に行われるようになった。1971年昭和46年)には貝塚の史跡指定などもされている。

その後、名古屋環状2号線国道302号)および清洲ジャンクションの建設工事が開始された1972年(昭和47年)から、区域を広げ大規模な発掘が行われ、道路計画に変更を行うなど、周辺の街づくりと連動させつつ、発掘調査が実施されている[4]

発掘は、年次によって筆頭者(実施主体)が異なるが、愛知県教育委員会、財団法人愛知県教育サービスセンター埋蔵文化財調査部、愛知県埋蔵文化財センター(公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団)が、愛知県埋蔵文化財調査センター、建設省愛知国道工事事務所、日本道路公団名古屋建設局、現地の教育委員会(名古屋市教育委員会、清洲町教育委員会(現在の清須市教育委員会))等の協力を得て実施されている[5][6][7][8]
遺跡の概要

縄文時代後期に地形が形成され[9]、弥生時代前期から古墳時代前期(紀元前6世紀?紀元後4世紀頃)まで営まれた全国でも有数の大規模集落遺跡である[10][11]。戦乱の弥生時代をイメージさせる遺跡としても注目され、集落間の闘争の歴史と住民の生活の変化とその状況の両方を知ることができる[12]。特に弥生時代中期は、他の集落の住民の襲撃に備え、強固な防御施設を建設していることがわかる[13]。それは、環濠、柵列、逆茂木乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なものであった[13]。これらは、弥生時代のものとしては日本で初めて発掘されている[13][1]。これらの防御施設の発見で、集落が城塞的な姿であったことが分かり、それまでの牧歌的な弥生時代のイメージを「戦乱の時代」へと大きく変える根拠になった[13]。また、四方に溝を掘り土を盛った方形の墓制(方形周溝墓跡)も発見されており、300基以上も見つかっている。最大のもので、一辺が30m以上もあり、弥生時代中期としては、全国でも最大級の規模である[14]
主な遺構

弥生時代の環濠集落の生活設備とその防護設備(環濠、逆茂木、乱杭、竪穴建物[15]、井戸、方形周溝墓、貝塚)弥生時代のヤナ遺構[16]、水田遺構等の生産設備遺構ほか [17]
主な出土品


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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