朝廷_(日本)
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朝廷
中央政府
菊紋
概要
創設年大宝元年(701年
大宝律令施行〉
解散年慶応3年(1868年
王政復古
対象国 日本
政庁所在地山城国
平安京
長岡京
恭仁京
大和国
平城京
藤原京
摂津国
難波京
福原京
近江国
紫香楽宮
政体律令制
代表 天皇
太政大臣
摂政関白摂関政治期)
太上天皇院政期)
機関
中央官制太政官
神祇官
弾正台
兵衛府
衛門府
近衛府*
蔵人所*
検非違使庁*
勘解由使庁*
日本の中央官制参照)
地方官制大宰府
京職
国司
郡司
里長
日本の地方官制参照)
官制外摂政*
関白*
征夷大将軍*
備考
* の付いた官庁、官職は令外官である。
ヤマト政権が律令国家、全国的政権としての体裁を整えた。武家政権等によって実権が奪われていくが、その長に官位を与えるなどして、官制は明治維新まで存続した。

ヤマト王権統治機構
日本国政府 →政権
平氏政権

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朝廷(ちょうてい)とは、日本にかつて存在した政権および政府である。大宝元年(701年)の大宝律令施行までには政治体制が成立し、慶応3年12月9日1868年1月3日)の王政復古の大号令により廃止された。
名称

日本において「朝廷」という言葉が見えるのは、『古事記』の開化天皇紀に穂別君の祖として「次朝廷別王」と記されたのが現存文献で確認できる初出で、『日本書紀』では崇神天皇紀《崇神天皇60年(38年)七月己酉条》「聞神宝献于朝廷」まで遡って記され、また、「朝庭」が当てられたものでは、景行天皇紀《景行天皇51年(121年)八月壬子条》「則進上於朝庭」がある。

『日本書紀』用明天皇紀《用明天皇元年(586年)五月条》に「不荒朝庭」とあるのは実在する場所を推測させる具体的な記述であるが、推古天皇紀で「朝庭」または「庭」として度々言及され、十七条憲法の官吏の出退について説かれた8条に「群卿百寮、早朝晏退」(官吏は早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け)とあって政務を執る場所として明確な推古天皇の小墾田宮が発掘調査から実在が裏付けられた最古の「朝庭」である。
「朝廷」と「朝庭」

中国では「朝廷」と「朝庭」は同義に用いられ、記紀でも混用されているが、中国での字義に広場の意味はないにもかかわらず、日本史学では後に「朝堂院」と総称される政務・儀式を執り行う建物群に囲まれた広場を指して特に「朝庭」と区別して用いる。詳細は「朝庭」を参照

『日本書紀』推古天皇紀《推古天皇16年八月壬子条》「召唐客於朝庭」と記された、隋使裴世清が天皇に来朝の挨拶をしたとされる小墾田宮の「朝庭」を指して、吉村武彦は、「朝庭は、普通は『朝廷』の字を使うが、ここはのちの朝堂院にあたるスペースの中央広場であるから、『朝庭』の方が的確である」と述べている[1]。また、熊谷公男は、「左右対称の整然とした配置をとった『朝庭』を付設した宮は、小墾田宮がはじめてであった可能性が高い」としている[2]
朝政と朝儀

「朝廷」で執り行われたのが朝政と朝儀である。

朝政は、天皇が早朝に政務をみる「あさまつりごと」として始まり[3]、後に転じて、朝廷の政務一般を指す「ちょうせい」となった[注釈 1]。「あさまつりごと」については「朝政」を、「ちょうせい」については「公事#政務としての公事」を参照

朝儀とは、さまざまな公の儀式の総称であり、天皇即位儀元日朝賀任官叙位改元の宣詔、告朔などの朝拝を中心とする儀式と、節会や外国使への賜饗などの饗宴を中心とする儀式とがあった。詳細は「朝儀」を参照
朝堂院詳細は「朝堂院」を参照

朝堂院は朝政と朝儀が執り行われた朝廷の正庁であり、小墾田宮の「朝庭」は住まいである「宮」から分離して朝堂院の原型が姿を見せており、「朝堂」を置いて政務を執る「朝堂政治」が開始されたのを推古天皇治下とする[4]が、その規模が確認されたものでは、条坊制により日本史上最初に建設された都城とされる藤原京(藤原宮)の朝堂院が最古である。

朝堂院はその後平城京難波京長岡京平安京と都が移っても建設され続けた。平安時代876年貞観18年)、1058年康平元年)に焼失し、そのたびに再建されたが1177年安元3年)の安元の大火ののちは再建されなかった。

内裏の焼失により里内裏が現れるようになって後、天皇が政務を執る場所は朝堂院の有無にかかわらず天皇の私的な住まいであった内裏に移り、朝儀は主に内裏の紫宸殿でおこなわれることとなった[5]

また、退位した天皇(上皇)が「天皇家の当主」[注釈 2]である資格をもって政務を行う院政も朝堂院外で行われたが、これも朝廷に含められる。

なお、中国の場合とは異なり、日本では、天皇の私的な住まいである内裏の七殿五舎後宮)には宦官が置かれず、もっぱら女官によって秩序が維持された。
歴史「日本の歴史」も参照

武家政権が樹立される以前と以後で朝廷の性格が大きく異なり、武家政権が樹立される以前は政権として機能し、武家政権が樹立された以後は武家政権の権威を保障する立場となった。
大宝律令施行以前
大和朝廷詳細は「ヤマト王権」を参照

奈良時代以前の古墳時代から飛鳥時代にかけての畿内政権は、主に飛鳥近辺の大和地方に宮を置いていたので「大和時代の朝廷」という意味合いで「大和朝廷」と呼称されてきた。しかし、大和地方は古墳時代当時は「倭」もしくは「大倭」と表記され「大和」の表記が後のものであることと、1970年以降、古墳時代の政治組織にかかわる研究の進展から、朝廷の語源である「君主制下で官僚組織をともなった政府および政権」というよりも、古墳時代に関しては「ヤマト政権」または「ヤマト王権」と呼ばれることが多くなっており[注釈 3]、「大和朝廷」の表記は少なくなっている[注釈 4]

このことについて、関和彦は、「朝廷」は「天皇の政治の場」であり、4世紀5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し[6]、鬼頭清明もまた、一般向けの書物のなかで、磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、武烈朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として「大和朝廷」の語は継体天皇以後に限って用いるべきと説明している[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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