朝倉政元
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 凡例朝倉政元
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文15年(1546年[1]
死没寛永6年3月17日1629年5月9日[1]
別名彦四郎[1]、右京進[1](通称)
戒名日乗[1]あるいは日泉[1]
主君北条氏政豊臣秀次徳川家康頼宣頼房
氏族朝倉氏
父母朝倉政景
兄弟政元、近藤綱秀室、間宮信繁室、政成、景吉、政之[1]
天方通綱室、女子、能元(元能[2])、政明、元忠 [1]
養子:政実[1](元宣か[2]
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朝倉 政元(あさくら まさもと)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武士通称は右京進。はじめ小田原北条家に仕え、のち徳川家に出仕して水戸藩士となった。作りの名人として知られ、政元が製作した「右京打」の鞍は江戸時代に贈答用として重んじられた。
生涯
北条家家臣・朝倉右京進

天文15年(1546年)生まれ[1][注釈 1]。父の名は、『寛永諸家系図伝』では政景(因幡守)、『水府系纂』では政光(右京進・能登守)とされる[注釈 2]が、その実名を確定できる史料はない[6]。なお、本項の人物の実名は慶長19年(1614年)の銘のある黒漆塗鞍(馬の博物館所蔵)の署名から、「政元」で疑いはない[7]

永禄2年(1559年)成立の『北条家所領役帳』では、馬廻衆の「朝倉右京進」が伊豆国鎌田(現在の伊東市鎌田)と相模国西郡大窪(現在の小田原市板橋[8])で合計44貫文余を得ていたことが確認できる[7]。長塚孝は、『寛永系図』の生年を信じれば『所領役帳』当時の政元は13歳で、一般には元服前の年齢であるから、この「朝倉右京進」は先代当主(政元の父と見てよい、とする)と推測している[7]

天正15年(1587年)4月27日、小田原の伝肇寺[注釈 3]が寺地の引き渡しをめぐって朝倉右京進を訴えた相論について、北条家は右京進の主張を退ける裁定を下した(長塚は、天正期の「朝倉右京進」は政元とみてよいとする[8])。右京進は小田原城下町に隣接する大窪の知行地の一部(8貫100文の地)を寺の用地として売却したが、その引き渡しを巡って紛争が生じていたものである[8]。裁定の1か月余りのち、右京進は売却を明記した証文を提出したが[8]、この史料は北条家における土地売却の手続きや兵糧の計算方法、小田原城下町外郭の状況などが記された史料として知られる[8]
徳川家に仕える

政元は、北条家が滅亡すると豊臣秀次に仕えたという[1][11]文禄4年(1595年)の秀次事件のあとで牢人となり、山城国で蟄居した[1][11]

慶長8年(1603年)、徳川家康に召し出されて拝謁(御目見)した[1][注釈 4]。『水府系纂』に従えば、政元は武田信吉(万千代)付となり、600石を知行した[11]。慶長8年(1603年)9月に信吉は死去し、代わって11月に徳川頼宣(長福丸)が水戸城主になるが、これに伴って政元は頼宣付きとなった[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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