服部正就
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 凡例服部 正就
時代安土桃山時代 - 江戸時代
生誕天正4年(1576年[1]?
死没慶長20年5月7日1615年6月3日
別名通称:半蔵、石見守
通名:源左衛門
戒名了義院殿前石州禅室参公大居士
官位石見守
主君徳川家康徳川秀忠
父母父:服部正成 母:長坂信政女子
兄弟正就(源左衛門)、正重(長吉)、正廣(郷八郎、出家)
松尾君松平定勝長女)
子正幸、正辰、正治
特記
事項家臣:長嶋五左衛門
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服部 正就(はっとり まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。通称は半三(はんぞう)、あるいは源左衛門で、一般に服部半蔵(半三)の名で知られている服部正成の長男。母は徳川家康の家臣である長坂信政の女子と伝わる[2]。正室は松平定勝久松松平氏)の長女松尾君、子は服部正幸、服部正辰、服部正治。官位は石見守。生年については天正4年(1576年)[1]と永禄8年(1565年)の説がある。
生涯
家督継承

父である服部正成の病死により、21歳の時[1]、服部家の家督および服部半蔵の名と御先手鉄砲頭[1][3]与力7騎・伊賀同心200人の支配を引継いだ。

正室の松尾君は、自身の祖母であり伯父徳川家康の母である於大の方に侍女として仕えていた。松尾の父は家康の異父弟の松平定勝であり、縁組が決まると松尾は家康の養女とされた。松尾との婚姻後、於大の方への返礼のため登城した正就は、家康より秋廣の刀を賜っている[1][3][4]
関ヶ原の合戦前後

慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前の6月18日、諸大名を動員して上杉景勝討伐に向かう家康が石部宿に到着した。しかし西軍とされた長束正家の策謀を疑い、長束の領地である水口城下を夜間ひそかに通り抜けた際、本多忠勝渡辺守綱、水野正重らと共に護衛にあたった。正就ら鉄砲頭は火縄に火をつけた臨戦状態で警戒した[5][6]

6月22日、正就は上杉景勝の支配する白川小峰城(白河城)に向け派遣された。大田原晴清の援軍として皆川広照皆川隆庸らと共に下野国の大田原城へ入り、家康より預かった鉄砲の配備し、また宇都宮の守備にあたる[5][6][7][8][9][10]。この時、大田原城に運び込まれた鉄砲の数については、史料により「鉄砲100挺」[5]「長筒の鉄砲10挺」[6][9]「大砲10挺」「大砲15挺」などの差異がある。

9月15日の関ケ原の合戦の本戦には参加せず、下野黒羽城にて親族の服部保英(伊賀衆100人)、岡部長盛(甲賀衆100人)、黒羽城主大関資増千本義定(那須衆)と共に対上杉として防衛に籠っている[1][11][12]。また、8月中に白河城の偵察に伊賀者を3人送り込み[5][13]、その報告を検討した上で岡部長盛とともに、徳川方対上杉軍総大将の結城秀康に「速やかに白河城を攻めるべし」と進言したが、秀康は家康から守勢を厳命されていたこともあり、「今は形勢に従う」と沙汰され、白河城攻めは中止となる[5]

翌慶長6年(1601年)7月、正就は鉄砲3挺と玉薬を城付武具として残し、大田原城を退去し[13]、その後は江戸にて秀忠に仕えた[4]
伊賀同心との確執


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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