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「服部住吉神社」とは異なります。
服部天神宮
拝殿
所在地大阪府豊中市服部元町1丁目2-17
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分46.9秒 東経135度28分33.5秒 / 北緯34.763028度 東経135.475972度 / 34.763028; 135.475972 (服部天神宮)
服部天神宮(はっとりてんじんぐう)は、大阪府豊中市服部元町にある神社。旧社格は村社。関西では「足の神様」として知られている。 豊中えびす祭(平成19年)六月大祓(茅の輪くぐり)足の守護祈願大祭(平成18年) 鎮座の時期については詳らかでないものの、帰化人集団「秦氏」が允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられ当地を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬の神)を祀ったのが始まりとされる。この頃はまだ小さな祠だったという。しかし允恭天皇の御世に服部連を賜姓されたのは秦氏ではなく伊豆国造族の麻羅宿禰(麻羅足尼)であり[1][2]、その祖神が少彦名命と見る説もある[3]。その後、この少彦名命を祀る祠は天神祠と呼ばれるようになった。 延暦2年(783年)に藤原魚名は大宰府に左遷されて筑前国へ向かったものの具合が悪くなり、自らの所領があったこの川辺荘で病臥するとそのまま当地で没し、天神祠の近くに葬られた。現在も「川辺左大臣藤原魚名公の墓」が境内に残る。約100年後の延喜元年(901年)に今度は菅原道真が魚名と同様、大宰権帥として左遷され任地へ赴く途中、当地で持病の脚気に襲われ動けなくなった。そこで里人の勧めるままに路傍の天神祠と魚名を祀る五輪塔に平癒を祈念したところ、たちまち健康を取り戻して任地へ辿り着けた、との言い伝えがある。 菅原道真の没後、天神信仰の高まりと共に当社にも菅原道真を合祀することとなり新たに堂宇が建立された。この頃から「服部天神宮」と呼ばれるようになり、菅原道真の故事にちなみ「足の神様」として崇敬を受けるようになった。 近世に入ると、当地が能勢街道の宿場町だったこともあって徐々に門前市を成すようになり、中でも江戸時代後期の文化年間(1804年 - 1817年)、文政年間(1818年 - 1829年)には殷賑を極めたという。 明治時代になると村社に列せられている。1910年(明治43年)3月10日に箕有電軌(現・阪急電鉄)が開業し、服部停留場が開設された。2013年(平成25年)12月21日に阪急宝塚線の服部駅が服部天神駅に駅名変更した。
祭神
主祭神 - 少彦名命、菅原道真
歴史