服部公太
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服部 公太

名前
愛称コータ
カタカナハットリ コウタ
ラテン文字HATTORI Kohta
基本情報
国籍
日本
生年月日 (1977-11-22) 1977年11月22日(46歳)
出身地千葉県習志野市
身長175cm
体重70kg
選手情報
ポジションMF
利き足左足
ユース
習志野市立香澄小学校
1990-1992習志野市立習志野七中学校
1993-1995渋谷教育学園幕張高等学校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1996-2011サンフレッチェ広島 450 (16)
2012ファジアーノ岡山 14 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2012年11月11日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
服部公太

服部 公太(はっとり こうた、1977年11月22日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時のポジションはミッドフィールダーディフェンダー渋谷教育学園幕張高等学校卒業

現在は広島経済大学で監督を務めている。
人物
鉄人
フィールドプレーヤーとしてはJ1史上初の100試合連続フルタイム出場達成者
[注 1]サンフレッチェ広島生え抜きとしては初のJ1通算350試合出場達成者[2]。通称「鉄人[3]。2001年には両足甲骨折した状況でプレー[4]。2005年には練習中に右肘脱臼し全治3週間の怪我を負いながら、13日後のリーグ戦にはプロテクターを着けてフル出場している[5]
プレースタイル
豊富な運動量から精度の高いクロスが魅力の左アウトサイド。ウイングバックやサイドバックでプレーする[4][6]
来歴

5歳のころからサッカーを始める。主に攻撃的なMFとしてプレー、高校は渋谷幕張高校へ進学、宗像マルコス望[注 2]から指導を受けている。高校3年次には千葉県選抜としてふくしま国体少年部門優勝、U-18日本代表にも選ばれた[4]東京ガスサッカー部(当時JFL)からの熱心なオファーを受けるつもりでいたが、渋谷幕張高校のコーチからJリーグでの挑戦を後押しされ、翻意する[7]

1996年、サンフレッチェ広島に入団[注 3]。同年にはAFCユース選手権一次予選に出場するU-19日本代表に選ばれる。同年11月9日対横浜マリノス戦で、74分から途中交代出場し公式戦デビューを飾る。

1997年、エディ・トムソンが監督に就任すると、攻撃的なMFから左アウトサイドにコンバートされる。同ポジションレギュラーでもあり日本代表でもある路木龍次の怪我もあり試合経験を積む。1998年、路木が移籍したこともあり[注 4]左サイドでレギュラーとして定着し、同時期にレギュラーをつかんだ久保竜彦とのホットラインを築いた。当初はフリーキックも蹴っており、同年8月22日のJリーグ初得点も直接FKで決めている[8]。2000年7月29日対清水エスパルス戦でJ1通算100試合出場を達成。[9][10]

2001年にはヴァレリー・ニポムニシがめざした攻撃的なサッカーでは左サイドバックとして活躍、攻撃能力が開花し11アシスト[10] し、右サイドの駒野友一との両サイドは攻撃の基点になり攻守共に重要なポジションともなった。しかも、チームはJ1残留争いをしている状況の中、両足甲を怪我した状況でプレーし続けた。残留が決まった同年11月21日、右第5中足骨基部骨折・左第五中足骨骨折・左外側半月板部分切除の手術を行う。[9][10]

2002年、キャンプから怪我が再発し、同年7月から復帰するもののなかなかコンディションが上がらなかった。前節までの累積3枚により同年11月23日対柏レイソル戦にて出場停止、これが2011年現在で最後の警告による欠場である。2002年末、チームはJ2降格してしまうものの残留、2003年J2ではセザール・サンパイオとのコンビで左サイドを制圧しJ1昇格に貢献した。2004年、上村健一の移籍に伴い主将を務めた[注 5]。2005年7月2日対柏レイソル戦でJ1通算200試合出場を達成。この間、リーグおよびカップ戦すべての公式戦にフル出場を果たす。[9][10]

2007年3月10日対柏レイソル戦にてJ1のみ100試合連続フルタイム出場達成[注 1]。2008年、2度目のJ2となったが1年でのJ1昇格に貢献、キャリア最高の4ゴールと流れの中からのクロスのみで12アシストを挙げアシストランキング2位となった[11]。2009年5月9日J1第11節対ジェフユナイテッド市原・千葉戦で史上38人目J1通算300試合出場達成[12]、2011年5月21日J1第12節対ヴィッセル神戸戦で史上22人目のJ1通算350試合出場を達成した[2]

ただ2010年以降は山岸智の加入や石川大徳の台頭により出場機会が減り[6]、同年10月右足甲骨折により離脱しそこから復帰するも控えが続いた[13]。2011年末、広島からコーチ転身へのオファーを受けるも現役にこだわった[13]

2012年、即戦力の左サイドを探していたファジアーノ岡山に完全移籍した[6][13]。シーズン中に内転筋痛が恒常化し、これをきっかけに引退を決意[14]。同年シーズン終了後に現役引退[15]

2013年より、サンフレッチェ広島ユースのコーチに就任[16]
エピソード
フルタイム出場

かつては2002年11月から2007年10月まで続いた連続試合フルタイム出場のJリーグ記録を持っていた(ただし、Jリーグは同一リーグ内の記録しか認めていないため、J1とJ2にまたがる服部の記録は参考記録扱い
[9][10])。2014年林卓人が記録更新している[17]


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