凡例有馬 頼貴
有馬頼貴像(篠山神社
有馬 頼貴(ありま よりたか)は、筑後久留米藩の第8代藩主。久留米藩有馬家9代。
藩校・明善堂を創設するなど、久留米藩の文運興隆に尽力したが、その一方で趣味の犬や相撲に傾倒、小野川才助らを抱えた。華美な大名火消は江戸で知られ、巷説「有馬の猫騒動[2]」の題材にもされた。 延享3年(1746年)4月2日、第7代藩主・有馬頼?の長男として生まれる。宝暦8年(1758年)11月15日に将軍徳川家重に初謁[1]、12月18日に従四位下・上総介に叙位・任官される[1]。天明元年(1781年)に侍従に遷任[1]。 天明3年(1783年)に父が死去したため、天明4年(1784年)1月23日に家督を継いだ[1]。天明4年(1784年)閏正月に中務大輔にすすむ[1]。 当時の久留米藩は財政難に悩まされていた。ところが頼貴は相撲を好んで多くの力士を招いては相撲を行ない、さらに犬をも好んで日本全国はもちろん、オランダからも犬の輸入を積極的に行い財政難に拍車をかけた。このため、家臣の上米を増徴し、さらに減俸したり家臣の数を減らしたりして対処している。しかし幕府からの手伝い普請や公役などによる支出もあって、財政難は解消されることはなかった。 寛政8年(1796年)に藩校・明善堂を創設し、藩士教育に尽力している。文化元年(1804年)に左少将に遷任された。文化9年(1812年)2月3日に死去した。享年67。 嫡子だった三男・頼端は早世していたため、その長男の頼徳が跡を継いだ。 正室は長州藩主毛利重就の娘・勢代(勢与)[3]。勢代は明和5年(1768年)に輿入れしたが、子をなさないまま安永4年(1775年)に没した[3]。 頼貴には10人の側室との間に男女25人の子があった[3]。最初の男子は安永4年(1775年)生まれの安次郎であるが安永6年に没しており[3]、『寛政重修諸家譜』にも記載されていない。 頼貴は『寛政重修諸家譜』編纂当時の当主である。『寛政重修諸家譜』には以下の子女が記載されている[1]。
生涯
家族・親族
女子(松平斉宣婚約者) - 嫁入前に早世
養女(石野範至
女子(土井利制婚約者離縁後稲葉雍通夫人)
有馬頼董
有馬頼善
有馬頼端
有馬頼体
女子(丹羽長祥夫人)
女子(有馬氏保夫人)
有馬頼久
某(本之助)
長男有馬頼董が早世したため、二男有馬頼善が嫡子となるも廃嫡、代わって三男有馬頼端が嫡子となったが、父に先立っている。
『平成新修旧華族家系大成』には、子として以下のみが記載されている[4]。
有馬頼端
澄(稲葉雍通夫人)
蔦(有馬氏保夫人)
品(丹羽長祥夫人)
堅(有馬照長夫人)
庭(戸田忠延夫人)
木下俊芳(木下俊隆養子)
錘(土岐頼潤正室)
国(木下俊良正室)
脚注^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
^ 「有馬猫」や「怪猫有馬御殿」等の映画にもなった。
^ a b c d 篠原(1981年)p.571
^ 『平成新修旧華族家系大成』上、p.60
参考文献
『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九
篠原正一『久留米人物誌』(久留米人物誌刊行委員会、1981年)
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
外部リンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus『有馬頼貴』 - コトバンク
表
話
編
歴
久留米藩8代藩主 (1784年 - 1812年)
有馬豊氏1620-1642
有馬忠頼1642-1655
有馬頼利1655-1668