有馬稲子
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ありま いねこ
有馬 稲子
『サンケイグラフ』1954年9月12日号より
本名中西 盛子(なかにし みつこ)
生年月日 (1932-04-03) 1932年4月3日(92歳)
出生地 日本大阪府豊能郡池田町
(現:池田市[1]
血液型A型
職業女優
ジャンル映画、テレビドラマ、舞台
活動期間1949年 -
配偶者萬屋錦之介1961年 - 1965年[1]
河村三郎(1969年 - 1983年[1]
著名な家族(初代)有馬稲子(伯母・養母)
公式サイト有馬稲子の喜望峰
主な作品
テレビドラマ
天と地と
赤い運命
あすか
名古屋仏壇物語』映画
彼岸花[1]
人間の条件[1]<第一・二部>
武士道残酷物語』舞台
風と共に去りぬ[1]
奇跡の人
はなれ瞽女おりん
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有馬 稲子(ありま いねこ、1932年4月3日[1] - )は、日本女優大阪府豊能郡池田町(現:池田市)出身[2]血液型はA型。愛称は「ネコちゃん[3]」「おイネ」。ホリプロ・ブッキング・エージェンシー所属。本名:中西 盛子(なかにし みつこ)[2]
略歴・人物

父は共産主義者で官憲に追われる身であったため、見かねた祖母が4歳の盛子を、釜山にいる父の姉の中西かねの下に連れて行き、子供がいなかったかね夫婦は盛子を養女にした[4]。養父は家庭用品問屋商工会議所議長なども務めていた[5]。養母(伯母)の中西かねは1916年から1926年にかけて「有馬稻子」の芸名で宝塚歌劇団4期生として在団していた経歴があり[6]、退団後は藤間流の名取りで日本舞踊を教えていて、盛子も養母から踊りを習う[5]釜山公立高等女学校に入学するも、間もなく終戦を迎え、伯母の手配で引き揚げ船に乗り、下関に帰国する。当初は引き揚げ船で知り合った人物の世話になり、小倉で1か月滞在するも、大阪にいた盛子の実の両親が彼女の生存を知り、再会を果たす。しかし、実父に虐待を受けたり弟妹たちとの関係が上手くいかなかったため、自殺を考える時期もあったという。1945年秋、大阪府立夕陽丘高等女学校に編入する。養母の中西かね。中西は大正時代に「有馬稻子」の芸名で活動していた。

1948年、仲の良い友人が「ね、タカラヅカ、受けへん。音楽学校が生徒募集してるわ、あんたやったら受かるんちゃうか」と声をかけてくれたことがきっかけとなり、宝塚音楽学校に入学する。当時は宝塚への知識はまったくなく、ただ駅でよく美しいポスターを見掛けるぐらいだったため[4]、養母が宝塚歌劇団にいたことは、入学後に当人から知らされたという。1949年宝塚歌劇団36期生として宝塚歌劇団に入団、二代目有馬稲子を襲名する。この芸名は百人一首大弐三位の「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」に由来する[7]。この由来を知ってからは、古臭いと思っていた自分の名前が好きになったという。宝塚入団時の成績は63人中9位[8]。在団期間は短かったが、主演娘役として活躍した。在団中の1951年東宝『寳塚夫人(宝塚夫人)』で映画デビューする[9]。元々、宝塚在団中から新劇のファンであり、映画への誘いに抵抗がなかったという。同年7月、映画『せきれいの曲』で初主演する。宝塚歌劇団の最終出演公演の演目は花組公演『巴里の騎士/かぐや姫』である[8]

1953年、自身が男役を演じた際の違和感から映画に興味が転じ、3月25日付で宝塚歌劇団を退団し[8]、東宝の専属女優となる[1]

1954年4月16日、岸惠子久我美子らと共に「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立する[10][1]。自ら出演作を決めたりする活発な活動は「ゴテネコ」とも揶揄された[11]

1955年松竹へ移籍した。同様に東宝から移籍してきた岡田茉莉子と共に二枚看板として活躍。

1960年3月30日から5月15日まで約1か月半、ヨーロッパを旅行する。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なヨーロッパ旅行となった。

1961年公開の『もず』(渋谷実監督)について、当初は杉村春子と岡田茉莉子が母娘役での出演とされていたが、最終的には淡島千景と有馬での製作となった。これは有馬が所属していた「にんじんくらぶ」が『もず』の権利を保有していたためだという。この件は「もず事件」としてマスコミで喧伝された[12]

1961年11月27日、俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)と結婚式を挙げる。1958年に有馬が持っていた雑誌の対談ページのゲストとして中村が訪れたのが、2人の出会いだった。その対談で中村と意気投合し、翌年映画で共演すると、撮影10日目に「結婚を前提に付き合ってもらえないか」と言われ、快活な彼に惹かれて結婚を決めた[13]。披露宴の招待客は約1000人以上、用意されたウェディングケーキは高さ2メートルで当時の値段で16万円、と日本映画界を代表するトップスター同士の結婚にふさわしい、当時としては破格の豪華結婚式だった。また、2人の結婚を祝して「有馬錦」という銘柄の日本酒も造られた。さらに中村の父親から900坪の土地を京都に与えられ、そこに150坪の邸宅を構えた。しかし、そこでの家事生活は過酷なもので、昼も夜も台所に立つ日々に疲れてしまい、これが離婚の一因になってしまったという。また、結婚後中村が、毎晩自宅に共演者やスタッフを十数人も連れてきては大宴会を開いた結果、夫婦水入らずの時間が全くなかったのも原因とされる[13]

1965年7月23日、結婚から約3年7か月後、東映の大川博社長が2人の離婚を発表した。離婚の理由を「有馬が今後も芸の道を進むことを強く希望し、家庭の主婦の務めができなくなるため」としている[14]。後年、有馬は「当時も今も錦ちゃんのことが大好きですが、家庭には向かない人でした」と回想している[13]1969年には実業家の河村三郎と再婚するも、1983年に離婚する。なお、中村(萬屋)と河村のいずれとの間にも子はなかった。

1965年、負債による「文芸プロダクションにんじんくらぶ」の解散後は、宇野重吉に私淑して劇団民藝に所属する。


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