有藤通世
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有藤 通世基本情報
国籍
日本
出身地高知県高岡郡宇佐町(現:土佐市
生年月日 (1946-12-17) 1946年12月17日(77歳)
身長
体重186 cm
82 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手外野手
プロ入り1968年 ドラフト1位
初出場1969年4月30日
最終出場1986年10月19日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


高知高等学校

近畿大学

ロッテオリオンズ (1969 - 1986)

監督歴


ロッテオリオンズ (1987 - 1989)

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有藤 通世(ありとう みちよ、1946年12月17日 - )は、高知県高岡郡宇佐町(現:土佐市)出身・千葉県船橋市在住のプロ野球解説者、元選手内野手外野手)・監督。元プロゴルファーの有藤実花(長女)[1]、有藤智香(次女)、有藤英世(長男)[2]の父。

1975年シーズン途中から1989年までの登録名は有藤 道世(読み同じ)。現役時代から監督までロッテオリオンズ一筋を貫き、「ミスター・ロッテ」と呼ばれる。パ・リーグ初の三塁手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している[3]
経歴
プロ入り前

生まれは名古屋市だったが、2歳の時に両親が離婚し、相撲の盛んな高知に移る。母親に育てられ、元々は亡き祖父の影響で相撲少年だった。中学入学前、後に土佐高校を甲子園に導いた籠尾良雄から野球の手ほどきを受け、野球に出会う。

高知高校では2年生の時に、エースとして1963年県予選決勝で高知商を下し、夏の甲子園に出場。しかし2回戦(初戦)で東奥義塾に延長10回裏逆転サヨナラ負けを喫する。同年秋季四国大会県予選では準決勝に進み土佐高の島村聖(慶大-日本鋼管)と投げ合うが1-2で惜敗。翌1964年夏の予選は光内数喜(芝工大?鐘淵化学)とともに投の二本柱として順調に勝ち進み、南四国大会決勝で徳島商を破り、甲子園に進出する。開幕試合の秋田工戦に四番打者、右翼手として出場するも、秋田工のエース三浦健二から第1打席で顔面に死球を受けて以後の試合を欠場。高知高は光内の好投もあり、決勝で早鞆高を降し優勝する。有藤はチームの全国制覇を、病院のベッドでテレビを通して見る羽目になった。

母子家庭のため卒業後は働くつもりでいたが、周囲の支援もあって特待生で近畿大学に進学。三塁手として、藤原満と三遊間を組む(入学当初は有藤を遊撃手として育成する予定だったが、ある試合の満塁のピンチで有藤遊撃手がトンネルをしてしまったため、三塁手が本職の藤原と守備位置を交換[4])。関西六大学野球リーグでは1966年春季リーグで、エース山下律夫を擁し近大の初優勝に貢献した。同年の全日本大学野球選手権大会は決勝で日大に敗れ、準優勝にとどまる。在学中に3度優勝し、1968年春季リーグでは首位打者を獲得。リーグ通算78試合出場、274打数84安打、打率.307、8本塁打、36打点。

同期には「法大三羽烏」の異名で呼ばれた田淵幸一山本浩二富田勝明大星野仙一などがいたため、有藤の知名度は低かった。母はプロ入りに反対したため、社会人野球を経験してからプロ入りでも遅くないと考えたり[5]、落ち着かない日々を送っている時、新聞で当時の近鉄・三原脩監督が「高知の人間は素質はあるんだけど、酒と女で潰れてしまう」とコメントした記事を目にした[5]。確かにそれまでプロ野球で大成した高知県人はいなかったが、同じ四国の香川県出身の「知将」が何を根拠にそんなことを言うのかと「何くそ」と腹を立て、プロに入って力を見せつけてやりたいという気持ちが強くなった[5]

1968年のドラフト1位で東京オリオンズ(翌1969年からロッテオリオンズ)に入団。山内一弘がつけていた背番号8を受け継ぐ。指名当初は社会人野球に進むかで迷っていたものの、「25歳までにレギュラーを取れなかったら大学職員として戻る」という約束を取り付け、プロ入りを決意した[6]
現役時代

1969年の1年目から当時の濃人渉監督に三塁手のレギュラーに抜擢され[7]、パ・リーグ新人歴代最多の111三振を喫する一方、打率.285(リーグ11位)、21本塁打の成績で新人王を獲得する。シーズン111三振は、1999年福留孝介が121三振を記録するまではプロ野球新人記録でもあった。

1970年には全試合出場を果たし、オールスターゲームにも選出される(オールスターには以後13年連続で選出された)。主に5番打者としてリーグ6位となる打率.306を残して25本塁打・80打点・27盗塁も記録。同年のチームのリーグ優勝に貢献した。しかし守備面ではリーグ最多の26失策を記録してしまう。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、5番・1番打者として全5試合に先発出場、しかし21打数4安打1打点と振るわず、1勝4敗で敗退。

1971年には1番・5番・6番打者などで出場するが、2年連続リーグ最多の24失策と守備の課題は解決されなかった。1972年には主に3番打者として自己最多となる29本塁打・31盗塁を残す。守備面でも失策が半減、三塁手としてシーズン147刺殺のパ・リーグ記録を樹立した。

1973年は打率.300(リーグ9位)、20本塁打の成績を残し、1974年は25本塁打・20盗塁の活躍でチームの日本一に貢献。中日ドラゴンズとの日本シリーズではMVPは弘田澄男に譲ったが、21打数9安打2打点2本塁打、打率.429を残して打撃賞と技能賞に輝く。10月10日八木沢荘六の完全試合を見届ける。

1975年シーズン途中、後期開幕前に登録名を有藤道世に変更。本人は「プロ入りしてから顔にデッドボールを5度食らうなどケガが多く、それである人に勧められて」変更したと話している[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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