有田芳生
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日本政治家有田 芳生ありた よしふ

生年月日 (1952-02-20) 1952年2月20日(72歳)
出生地 日本 京都府北桑田郡京北町周山
(現・京都市右京区京北 周山町)
出身校立命館大学経済学部経済学科卒業
前職新日本出版社編集者
ジャーナリスト
コメンテーター
所属政党(日本共産党→)
無所属→)
新党日本→)
民主党→)
民進党→)
旧立憲民主党→)
立憲民主党
称号経済学士(立命館大学)
親族有田光雄(父)
公式サイト参議院議員 有田芳生
参議院議員
選挙区比例区
当選回数2回
在任期間2010年7月26日 - 2022年7月25日
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有田 芳生(ありた よしふ、1952年〈昭和27年〉2月20日[1] - )は、日本政治家ジャーナリストテレビコメンテーター

参議院議員(2期)を務めた。両親は日本共産党員[2]、父は政治運動家労働運動家有田光雄
来歴
生い立ち

山口県下関市で出会い、京都府北桑田郡周山町(現在の京都市右京区)に移り住んだ日本共産党員の両親から生まれる[3][2]。そのため、ヨシフ・スターリンから「よしふ」と名付けられた[4]。芳生は「スターリンから取ったと聞かされたのは、中学の時だったんじゃないかなぁ」と述べている[5]

日本共産党入党以後・新日本出版社時代

京都府立乙訓高校在学中の1970年、18歳で上田耕一郎(後に日本共産党副委員長)らの論文に感動して、日本共産党に入党[6][2][7]日本民主青年同盟の同盟員が多数いた立命館大学経済学部[2]1977年に卒業する[8]1977年から日本共産党系の出版社である新日本出版社に入社する。日本共産党党本部によく行き、上田副委員長の部屋へも通っていた[2]

小田実を巡る党内批判・新日本出版社からの追放

1980年の「文化評論」に、事前に宮本顕治日本共産党委員長(当時)も了解した企画である上田日本共産党副委員長と作家の小田実の対談を掲載した。掲載号は完売した数カ月後に、小田実が公の場で共産党を「市民運動などを自党に系列化する既成政党」と批判した。この日本共産党批判を受けて、共産党と小田実の関係が悪化した余波で党内で有田までも批判された。日本共産党から長時間の「査問」(追及)を受けた末に自己批判書を書かされ、1984年に党籍剥奪はされなかったものの日本共産党系出版社である新日本出版社から追放されている[9]。後の2005年に小田実と上田副委員長が再び対談し、雑誌掲載されたが、日本共産党による対立の総括・和解経緯説明は一切なかった。そのため、2005年当時の心境について有田は「人生を変えられた者としては、どうしても解せなかった。」と語っている[9]
ジャーナリスト時代

新日本出版社から追放された後[9]フリーランスのジャーナリストとなる。1986年に『朝日ジャーナル』の霊感商法批判キャンペーンに参加する。同誌休刊後は『週刊文春』で統一教会報道に携わる[10]

『日本共産党への手紙』による日本共産党除名

事前に上田日本共産党副委員長に相談すると、「いい企画だ」と賛意をもらったため、党内外の自由かつ建設的な議論の種を蒔くつもりで共産党への提言を加藤周一ら文化人15人にもらった『日本共産党への手紙』(教育史料出版会)を1990年に出版した。この編集を手掛けたことで、小田実との対談記事掲載以来の査問が有田へ始まり、党規律違反として除籍処分を受ける。有田は2022年に小田実対談記事掲載の時よりも日本共産党の対応は硬直的だったとし、「赤旗」から3回連載で『日本共産党への手紙』を批判されたこと、賛同していたはずの上田副委員長が「だから(出版を)やめろと言っただろう!」と掌返ししたことで言葉を失ったとし、「これが、『政治的人間』というものか」と思ったと明かしている[9]。提言を依頼したが断った人物として、作家の佐多稲子、哲学者の久野収らをあげ、「以前共産党に攻撃されたことなどを理由に寄稿を断る文化人は多かった。」と明かしている[7][9]

オウム真理教・テレビコメンテーター

1990年代中盤からは、統一教会に加え、「オウム真理教に詳しいジャーナリスト」としてTVの報道番組に出演しだし、日本テレビ系列の『ザ・ワイド』ではレギュラーのコメンテーターを務めていた。しかし、本来有田はオウム事件発生以前からオウムを取材していたわけではなく、当時一緒に酒を飲むほど親しくしていた江川紹子にオウムの話ばかりを聞かされ、詳しくなった背景がある。1995年3月22日のオウム施設への強制捜査以降、しばらくの間平均睡眠時間が3-4時間になった[11]

「赤旗」による呼び捨てでの批判コラム掲載

1995年5月の麻原彰晃元死刑囚が逮捕された翌朝の「赤旗」に、「反共を売り物にする」「有田芳生」と呼び捨てで批判するコラムが載った。当時の心境について、有田芳生は「共産党は除名した人を反党分子だと攻撃する」と久野収が日本共産党を糾弾していたことを思い出したと語っている[9]
政界進出・政治家時代

新党日本

2007年新党日本副代表に就任し、同年の第21回参議院議員通常選挙に同党の比例区から立候補したが落選[12]2009年、新党日本公認、民主党推薦で、第45回衆議院議員総選挙東京都第11区(比例区重複)から立候補したが、自民党下村博文に約3500票差の僅差で敗れ、比例復活もならず、落選[13]

民主党

その後民主党に移籍し[14]2010年第22回参議院議員通常選挙に比例区から立候補し、37万票獲得し初当選した[15]


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