この項目では、明治・大正時代に存在した「有楽座」について説明しています。その他の用法については「有楽座」をご覧ください。
外濠に面した有楽座
有楽座(ゆうらくざ)は、1908年(明治41年)12月1日に開場し、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡した、日本初の全席椅子席の洋風劇場。数寄屋橋の東北約150mにあった。坪内逍遥らの文芸協会、小山内薫らの自由劇場、池田大伍らの無名会、島村抱月らの芸術座、上山草人らの近代劇協会ほか、新劇上演の拠点になったことなどで知られる。 JR有楽町駅の銀座口を出て、有楽町センタービルの左を銀座の方へ歩くと、首都高速道路の高架をくぐって外堀通りにぶつかる。有楽座は、その外堀通りを横切らない右手(現・千代田区有楽町二丁目)にあった。 あった時代にさかのぼると、外堀通りは水をたたえた外濠で、両岸に道路が通じ、東岸に東京電気鉄道の路面電車が走り、西岸には引き込み線が入り、有楽座は、引き込み線の道路越しに外濠に向いて、建てられていた[1]。柳沢保恵・福島行信ら、『華族紳士連の発起にて高等演芸場の目的で建築された』[2]と言う。 設計は横河民輔の横河工務所、施工は清水建設の前身の工務店。プロセニアム付きの舞台は、間口約11m、奥行約7.3m。3層の定員900の客席は桟敷や土間でない椅子。オーケストラ・ボックス、食堂、休憩室も備え、従来の歌舞伎の芝居小屋でない日本最初の欧風劇場だった[3][4]。 1920年(大正9年)夏、帝国劇場株式会社に合併され、久米秀治が主事となり、改装した[5]。以降は『帝劇姉妹館』的に、扱われた。 1923年の関東大震災に焼亡し、再建されなかったが、1935年6月7日に東宝が東京宝塚劇場、日比谷映画劇場に次ぐ3番目の劇場として東京都千代田区有楽町に2代目・有楽座を開場、1984年11月11日に有楽町マリオンが完成し老朽化を理由に閉館するも、2005年4月9日にニュートーキョービルにあったニュー東宝シネマを改装し有楽町に近いことと当時あったスキヤバシ映画を因んで3代目・TOHOシネマズ有楽座が開場。2015年2月27日にニュートーキョービルの老朽化により閉館。74年の歴史に幕を閉じた。 年2回の名人会には、錦城山典山・三代目神田伯山・四代目柳家小さん・初代三遊亭円右・七代目富士松加賀太夫・豊竹呂昇らが出演して、盛況だったと言う[6]。 日曜・祝日には子供向けのお伽芝居をやり、これには栗島狭衣・柳永二郎・栗島すみ子・梅村蓉子らも関係した。この子供デーは帝国劇場合併時まで続いた。 三代目清元梅吉・二代目常磐津文字兵衛・四代目吉住小三郎・藤蔭会などのお浚い会に、頻繁に使われた。 以下、上演年月、劇団、関係者、演目の順に列記する。
建物
上演演目の記録(抄)
1909年9月- 高田実一座、高田実・井上正夫、益田太郎冠者:『空中飛行機』
1909年11月27、28日 - 自由劇場第1回試演、小山内薫・二代目市川左団次・初代沢村宗之助ほか、イプセン作・森?外訳:『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』
1910年5月28、29日 - 自由劇場第2回試演、小山内薫・二代目左団次ほか、ヴェデキント作・鴎外訳:『出発前半時間』 / 森鴎外作:『生田川』 / チェホフ作・小山内薫訳:『犬』
1910年11月23日 - 新時代劇協会第1回、井上正夫・小堀誠・藤村秀夫、ショー作・鴎外訳:『馬泥坊』 / チェホフ作・川村花菱訳:『熊』
1910年12月2、3日 - 自由劇場第3回試演、小山内薫・二代目左団次・二代目市川猿之助・六代目市川寿美蔵ほか、ゴーリキー作・小山内薫訳:『夜の底(どん底)』 / 吉井勇:『夢助と僧と』
1911年1月30日 - 川村花菱試演劇場、国木田独歩:『牛肉と馬鈴薯』 / 楠山正雄:『青年と女優』 / 佐藤惣之助:『緊張』 / 松本苦味:『ごみため』
1911年2月5日 - 新時代劇協会第2回、井上正夫、ゴーゴリ作・楠山政雄訳:『検察官』 / 真山青果:『第一人者』