有森裕子
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有森 裕子


選手情報
フルネーム有森 裕子
国籍 日本
種目マラソン
生年月日 (1966-12-17) 1966年12月17日(55歳)
生誕地 日本岡山県岡山市
身長165cm
体重48kg
自己ベスト
ハーフマラソン1時間12分52秒(2000年)
マラソン2時間26分39秒(1999年)

獲得メダル

陸上競技
オリンピック
1992 バルセロナマラソン
1996 アトランタマラソン


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有森 裕子(ありもり ゆうこ、1966年12月17日 - )は、元女子マラソン選手で日本におけるプロランナーの草分けでもある。日本体育大学体育学部体育学科卒業。株式会社アニモ所属

日体大客員教授、日本陸上競技連盟副会長[1]日本プロサッカーリーグの理事、スペシャルオリンピックス日本理事長IOCのSport and Active Society Commissionメンバー[2][3]国際陸上競技連盟女性委員会委員、国連人口基金親善大使[4]リーフラス株式会社社外取締役。[5]
プロフィール

岡山県岡山市出身。岡山市立牧石小学校岡山市立岡北中学校を経て就実高等学校へ進む。中学時代はバスケットボール部に所属したが、校内運動会の800メートル競走で3回優勝していた。高校入学の際、陸上部に入部を希望するも、中学から大学までの一貫校である就実では中等部から持ち上がってきた素質ある陸上選手がおり、他の中学校から来た素人同然のランナーなど不要であると言われる。しかし有森は諦めず、1ヶ月後に入部を認めさせた[6]。高校時代に陸上競技で目立つ結果は残していないが、有森が高校に入学した年度に始まった全国都道府県対抗女子駅伝に、第1回から第3回まで補欠で登録されるという、同大会役員によれば大会史上唯一の記録が残っている[7]。このころの有森は、日本の女子長距離走の第一人者であった増田明美にあこがれ、増田について書かれた記事を練習日誌に貼っていた[8]

高校卒業後、高校の陸上部顧問の推薦を得て日本体育大学に進学[8]。1年の時に関東学生陸上競技対校選手権大会3000mで2位、また3年間補欠であった全国都道府県対抗女子駅伝に、4度目の正直で正選手として出走を果たす。が、生まれたときに股関節脱臼だったこともあり怪我が絶えず、その後は2年半に亘り鳴かず飛ばずで、密かにトライアスロン転向を目論み(女子の第一人者がいないという安易な思惑からであった)、親の仕送り全部を使って高額なトライアスロン用自転車を購入した。ところがその自転車は盗まれてしまい、そのことで有森は我に返ったという。3年の冬に学生駅伝にメンバーとして選ばれ、以降、有森は陸上競技からの転向は考えなくなった。全日本大学女子駅伝では区間賞を獲得している。

大学で競技者としての生活は終えて卒業後は教師になるつもりでいた。父親が教師をしている影響で、高校時代から体育教員志望であったという。しかし、教育実習期間中に、何の特別な準備もせずに出場した記録会で自己ベストから2番目の好タイムで優勝したことで、進路を実業団へと変える。折しもリクルート事件の真っ只中にあったリクルート社に、半ば押し掛けのような形で自分から連絡を取り、全くの無名で記録も残していない身でありながらその熱意を監督の小出義雄に認められ、最初はマネージャー兼選手という形で陸上部への入部を果たす。
初マラソン日本最高・日本最高記録達成

1990年大阪国際女子マラソンがマラソン初レースだった。中間点を過ぎて先頭集団から脱落するが、その後も粘り続けて2時間32分51秒の記録で6位に入賞する。この記録は当時の初マラソン日本女子最高記録であった。1991年にも大阪国際女子マラソンへ2年連続で出場。レース後半に入った35Km手前からカトリン・ドーレ ドイツ、当時 東ドイツ)と激しく首位を競り合うが、終盤でドーレに突き放される。優勝はならなかったものの日本人ではトップでゴール、2時間28分1秒の2位と健闘し、当時の日本最高記録を樹立。同年開催の世界陸上東京大会女子マラソン代表にも選出され、一躍日本女子のトップランナーへ世間の注目を集め始めた。

この間の1990年、有森は日本陸上競技連盟(日本陸連)が初めて行った高地トレーニング(アメリカ合衆国ボルダー)に、当時から有森のライバルでもあった山下佐知子らとともに参加した[9]
世界陸上4位入賞・オリンピック代表選考騒動

同1991年夏に東京で開かれた世界陸上競技選手権大会のマラソンでは、メダルには届かなかったが、2時間31分08秒で4位入賞を果たし、バルセロナオリンピック1992年)代表の有力候補となったものの、その時点ではまだ代表内定は出なかった(山下佐知子が2時間29分57秒で日本人トップの2位に入り銀メダル獲得、先にバルセロナ五輪内定に決まった。荒木久美は12位)。有森はその後バルセロナ五輪国内選考会の一つである、翌1992年1月の大阪国際女子マラソンに出場予定だったが、左足の怪我の為に欠場。又次の同年3月の名古屋国際女子マラソンも回避し、バルセロナ五輪女子マラソン代表選考は決定をただ待つのみとなる。尚名古屋国際が終了後の有森に対し、日本陸連からは「ケガが完治した事をアピールして欲しい」という要請もあって、有森は地元岡山市と及び千葉県の各10Kmロードレースで優勝するなど、不安が無いという存在を示していた。

そのオリンピックの女子マラソン代表の座をめぐり、有森が出場しなかった1992年1月の大阪国際女子マラソンでは、有森の日本最高記録を更新して2時間26分26秒のゴールタイムで優勝し、バルセロナ五輪代表を確定的にした小鴨由水に次ぎ、2時間27分2秒の好記録で2位となった松野明美と比較されることになる[10]。当時の国民的な大論議となり、松野が自ら五輪代表決定直前に「私を選んで下さい」という異例の記者会見も大きな話題となった。

しかし代表選考の結末は、最後の3人目に有森の方がマラソンの経験と実績が買われて、山下・小鴨と共にバルセロナ五輪女子マラソン代表となった。それでも、有森よりも記録が良かった松野を落選させるという、日本陸連の不透明で曖昧な選考方法に抗議の声が殺到、有森の所属するリクルート等にも誹謗中傷の電話や手紙が相次いだという。尚、念願のオリンピック初代表に選出された有森は記者会見で「色んな形でこういう感じで決まった事も有りますが、『よかったな』という想いを、少しでも今日は出して良いんじゃないかなと」「受験発表を待つよりもちょっと酷いかな、という気持ちが有りました」等と落選した松野を気遣ってか、喜びの笑顔は殆ど見せなかった。

その後、有森と松野は20年間に渡って一度も互いに言葉を交わすことはなかった。後に『[劇場版]ライバル伝説 光と影』の映画鑑賞企画において20年ぶりに再会した際、有森は「20年間、松野明美を避けて来た」、「以前も何回か対面の機会はあったのですが、心情簡単には会えないなと思いまして、私の方が避けていました」と心情を吐露している[11]
バルセロナ五輪で銀メダル

その1992年バルセロナ五輪女子マラソン本番での有森は、29Km付近で3位集団から抜け出してスパート。レース終盤の35Km過ぎ、先頭を走っていたワレンティナ・エゴロワ ロシア、当時 独立国家共同体)に追いつき、その後エゴロワと二人で急な登り坂が続くモンジュイクの丘にて、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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