有松・鳴海絞り
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有松絞りの「手蜘蛛絞り」のくくり折縫い模様の有松絞りで仕立てられた洋服

有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)は、愛知県名古屋市緑区有松鳴海地域を中心に生産される絞り染めの織物である。江戸時代に誕生して以降、日本国内における絞り製品の大半を生産しており、1975年(昭和50年)9月4日、国の伝統工芸品に指定された[1]。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある。
特徴三浦絞

木綿布を藍で染めたものが代表的で、糸のくくり方で模様が変わる[2]。その技法から、「くくり染め」とも称する[3]。愛知県名古屋市有松・鳴海地方の伝統工芸で、すべての工程がほぼ手作業によるため、非常に手間と時間を要する[4]

江戸時代に尾張藩が藩の特産品として保護したことにより、さかんに生産され[2]明治から大正時代にかけて新たな技法の開発により質量ともに発展を遂げた[5]。様々な糸のくくりの技法と、技法の組み合わせによって生じる多彩な模様は最盛期には100種類以上[2]、21世紀に伝え知られているものだけでも70種類はあり[1]、その種類の豊富さにおいて世界一とみられ、他の絞り染め生産地に類を見ない[4][5][6]伝統的工芸品産業の振興に関する法律における「伝統的工芸品指定品目」に認定され、日本国外においても「SHIBORI」といえば有松を示す[7]。伝統工芸品でありながら、継続的に多くの技術が開発・改良されてきた稀な事例とされる[7]

江戸時代には、東海道を往来する旅人に、故郷への土産物として好まれたことから街道随一の名産品として知られ[8]、その様子は葛飾北斎歌川広重らの浮世絵にも様々に描写されている[2][9]
歴史有松の旧東海道沿いの町並み(重要伝統的建造物群保存地区歌川広重の描いた東海道「鳴海宿」
発祥

諸説あるが、いずれも九州の豊後絞りの影響を受けて、江戸時代初期に始まったとされる。

一般によく知られている有松・鳴海絞りの発祥は、慶長年間(1596 - 1615年)、竹田庄九郎なる人物が、手ぬぐいに「豆しぼり」をつくり販売したのがはじまりとされる[1]。庄九郎は、これを「九九利絞(くくりしぼり)」と呼んだ[1]1610年(慶長15年)から1614年(慶長19年)にかけて行われた名古屋城の築城(天下普請)のために、九州・豊後から来ていた人々の着用していた絞り染め衣装を見て、当時生産が始められていた三河木綿あるいは知多木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを、街道を行きかう人々に土産として売ったという[10][11]有松・鳴海絞会館には、有松絞りの開祖として竹田庄九郎の功績をたたえ、記念碑が建立されている[12]

有松地域は、江戸時代のはじめには松林が生い茂る人家の無い荒野であったため[13]、街道に盗賊が出没し危険な地域となっていた[14]尾張藩は、この地域を通る東海道の旅人の安全と保護のため付近に集落を設ける必要性から、1608年慶長13年)に知多郡一帯に移住を奨励する触書を発布した[4][13]。有松の中心地の道路沿い数百メートルの範囲を対象とし[15]、移住者にはいっさいの夫役を免じて、免租地の特権を与えると布告したものである[16]。こうして、東海道沿いに新しい集落として有松[注 1] が開かれた。竹田庄九郎は、尾張藩の奨励に応じた最初に移住した8人のうちの1人で、知多郡の阿久比庄(あぐいのしょう)から移ってきた農民であったという[8][16][注 2]

竹田庄九郎をはじめ移住者たちは、はじめ東海道沿いにささやかな萱葺の家を建てて茶屋を開業したものの、鳴海宿までの距離が近かったことから、茶店を出したり草鞋を売るようなありきたりな商売では間の宿としての発展も望めなかった[13][16]。しかし、有松地域は丘陵地帯であるため、耕作に適する土地ではなく、移住者の暮らしぶりは困窮した[16]1625年寛永2年)における有松村の石高はわずか14石5斗余であったという[13]。そこで考案されたのが有松絞りであった[4][17]

竹田庄九郎を開祖とし、慶長年間に生産をはじめたとする説は、『有松町史』や染色織史等に数多く紹介されて広く知られるようになり、21世紀初頭において定説となっている[14]。その由来は、『有松纐纈記』『竹田家系譜』からの引用である[14]。この定説には一部史実の混同があり、尾張藩の記録である『寛文村々覚書』(1672年)によれば、新町(のちの有松)の町造りのはじまりは1635年(寛永12年)とされ、慶長年間には新町も有松村も存在していないことから、有松絞りの発祥は名古屋城築城時ではなく、築城後の寛永年間(1624年―1645年)以降であると指摘する研究者もいる[14]。ただし、1610年(慶長15年)の名古屋城築城の際に府内藩の武士あるいは人夫が2年間滞在したことは事実であり、そのなかに豊後の絞り染が施された着衣や手拭いを身に付けた人夫などがおり、有松・鳴海地方の人々の目に触れて、この地方で絞り染めがはじまっていたと考えるのは、自然であると考えられる[18]。有松には、最初に移住した庄九郎ら8人に続き、1613年(慶長18年)までに新たに7人が移住し、1625年(寛永2年)までにさらに14名が移住した[19]。「寛文村々覚書」によれば、1671年(寛文11年)には、有松村には家屋31軒、151人が居住するまでに発展し、このうち男は83人、女は68人であったという[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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