有川貞真
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 凡例有川貞真
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不明
死没文禄2年(1593年
改名貞親(初名)→貞真→伊勢貞真→任世斎(入道名)
別名定真
墓所えびの市飯野長善寺
官位雅楽介(受領名)
主君島津貴久義久義弘
氏族有川氏→伊勢氏(薩摩伊勢氏)
父母父:有川貞則
兄弟貞末、貞真、東郷重勝
新納忠元の娘
伊勢貞成伊勢貞昌鎌田政冨
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有川 貞真(ありかわ さだまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将島津氏の家臣。
略歴

有川氏は桓武平氏頼盛流池氏の後裔と称し、貞世の代に島津貴久に仕えたのが、薩摩国における始まりである。当初は有川氏を名乗っていたが、有川氏は伊勢国小名であるとし、縁戚関係にある伊勢貞為の許しを得て、兄の貞末共々伊勢氏を名乗るようになり、兄共々薩摩における伊勢氏の祖となる。

永禄7年(1564年)、島津義弘に従い真幸院飯野[1]に入りその家老となる。同11年(1568年1月20日、義弘に従い大口城攻めに参加、また、元亀3年(1572年5月4日木崎原の戦いの際には、出陣する義弘に代わって飯野城留守居役を残りの20名の兵と共に務めた。この戦いにより日向伊東氏の勢力が弱まった翌元亀4年(1573年)、伊東氏の家臣であった須木城主の米良矩重、奈佐木城主の肥田木三郎兵衛尉、及び中山主計は貞真に対し起請文を提出し、島津に寝返る旨を表している。

天正9年(1581年)の水俣攻め、翌10年(1582年八代入りと常に義弘に従い参陣、その頃に飯野地頭に任じられる。同14年(1586年)の豊後国入りの際にも義弘の供をしている。

文禄元年(1592年)、義弘に従い文禄の役にも参加。しかし、翌2年(1593年)に朝鮮にて病死。
脚注^ 現在の宮崎県えびの市

出典

本藩人物誌 鹿児島県史料集第13集』鹿児島県立図書館、1973年

稲葉行雄『「さつま」歴史人名集』高城書房、1991年6月 ISBN 4924752282

『須木村史』須木村史編纂委員会


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