有島生馬
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出典検索?: "有島生馬" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年4月)

有島 生馬
ARISHIMA, Ikuma

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生誕 (1882-11-26) 1882年11月26日
神奈川県横浜市
死没 (1974-09-15) 1974年9月15日(91歳没)
神奈川県鎌倉市
国籍 日本
著名な実績画家

有島 生馬(ありしま いくま、本名・有島壬生馬、1882年明治15年〉11月26日 - 1974年昭和49年〉9月15日)は、日本画家は雨東生、十月亭。

神奈川県横浜市出身。志賀直哉児島喜久雄とは少年時代からの友人で、『白樺』創刊に参加し、代表作『蝙蝠の如く』を書いた。長くヨーロッパに留学したが、その際、有島の恋人(女中)を志賀らに託し、帰国後、彼女と結婚の意志がないことを示したため、志賀との間に疎隔が生まれ、敗戦後、志賀は『蝕まれた友情』(1946年(昭和24年))を書いて絶交。
家族

有島武郎の弟[1]里見クの兄[1]。妻の信子は原田熊雄の妹でドイツとのクォーター。妹のシマは医学者の高木喜寛に嫁いだ[2]。甥には武郎の長男である俳優森雅之がおり[1]1923年大正12年)に武郎が心中した後は彼の親代わりとなって育てた。姪には高木喜寛・シマ夫妻の長女・園子がおり[2]、西洋古典学者の呉茂一に嫁いだ[2]。一人娘の暁子は東京川崎財閥の3代目当主・川崎守之助に嫁いだ[3]
略歴 有島生馬が命名した「琅鶴湖」(水内ダム)を記念する石碑。

大蔵省関税局長兼横浜税関長をしていた有島武とその妻・幸の次男として、横浜月岡町(現・老松町 (横浜市))の税関長官舎で生まれる[4]。干支から「壬生馬(みぶま)」と名付けられたが、難読を嫌ってのちに「生馬」に改称[4]。父の職業や横浜という土地柄から外国人との交流も多く、兄姉とともに洋学教育を受ける一方、両親とも武家出身であったことから和洋混載の環境で育つ[4]。父親が由比ヶ浜に別荘を持っていたことから、吉田清成吉原重俊山尾庸三園田孝吉らといった官僚の子供たちと親しく交流した[4]

1891年(明治24年)に父親が大蔵省国債局長となり東京の麹町区永田町の官邸に転居し、麹町小学校に転校したが、1893年(明治26年)に父親が退官した後[5]1895年(明治28年)に学習院初等科に転校[6]。中等科に進む1896年(明治29年)に麹町区下六番町10(現・六番町 (千代田区))の旧旗本屋敷に一家で転居し、学校では志賀直哉、田村寛貞、黒木三次三条公輝らと文芸サークル「睦友会」を結成して会報誌で文芸評論などを発表[4][7]1900年(明治33年)中等科4年のときに肋膜炎を患い、学習院を中退して父の郷里である鹿児島県平佐村(現・薩摩川内市)で転地療養する[4]。このとき近所の書店で見つけた『近松研究』を読んだことから近松門左衛門など日本の古典文学に夢中になり、また、当地で出会った日本人神父から見せられたローマの宗教美術からイタリアで絵を学びたいと思うようになる[4]

一年の療養を終えて、1901年(明治34年)に東京外国語学校(現・東京外国語大学イタリア語科に入学。1903年(明治36年)には小山内薫の紹介で、かねてより傾倒していた島崎藤村小諸に訪ねた際、ピサロの絵を初めて見せられ衝撃を受ける(藤村との交流は生涯続き、のちに藤村の『千曲川のスケッチ』の装丁も手掛け、藤村が没した際は生馬が葬儀委員長を務めた)[4][7]岩元禎に紹介を頼み、大学[8]の卒業式[9]が終了したその足で洋画家藤島武二のもとを訪ね、住み込みの生徒となるが、しばらくして駒込円通寺に転居し、日露戦争終戦後の時期である1906年明治39年)5月、イタリアに向かう[4]。元電話交換手から絵画モデルになり生馬と知り合って有島家の女中となった恋人・関安子の世話を友人らに頼む[7]

薩摩出身のイタリア公使・大山綱介の紹介で6月にローマに居を構え、古典美術を学びはじめるが、同年9月に訪ねてきた兄・有島武郎とともにヨーロッパ各地を巡る旅行に出かけ、同年12月末からパリに留まるも、ロンドン滞在中の武郎を訪ねて過ごし、翌1907年(明治40年)2月末からパリの美術学校グラン・ショミエールに通いはじめる[4]。6月にはラファエル・コランの画室を訪ね、夏にはヨーロッパに留学中の旧友らと交流を楽しみ[4]、同年秋にセザンヌ回顧展を見て感銘を受ける。パリでは荻原守衛高村光太郎南薫造梅原龍三郎藤田嗣治らとも交流した[6]

1910年明治43年)2月に帰国し、武郎、弟・里見クとともに『白樺』同人となり[5][10]、セザンヌをいち早く紹介する。 同年、女中の関安子を捨て、里見クの学友だった原田熊雄の妹・原田信子(-1978年)と結婚。1911年(明治44年) 文展に入選。娘・暁子(1911-1982)が生まれる。1914年大正3年) 二科会結成(創立会員)。1914年(大正3年)妻・信子が家を出る[7]


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