有山淳司
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有山じゅんじ
出生名有山淳司
生誕 (1953-01-04)
1953年1月4日(71歳)
出身地 日本 大阪府
ジャンルフォークソングロックブルース
職業歌手ギタリスト
担当楽器ギター
活動期間1968年 -
共同作業者

五つの赤い風船

上田正樹とサウス・トゥ・サウス

公式サイト ⇒有山じゅんじのありやまなぺーじ

有山 じゅんじ(ありやま じゅんじ、本名:有山 淳司、1953年1月4日 - )は、日本歌手ギタリスト
略歴
音楽が楽しい

大阪府寝屋川市香里園出身。小学生のころから笛が好きで、アマリリスは得意中の得意、鼓笛隊にも参加[1]。洋楽では、姉の影響でドミニクを聞き、「これがおれ(の体の芯(引用者加筆、以下同様))に今もずっと通っているみたい。ずっと、おれ(ギター)弾いてたら『ドミニク、ニク、ニク?』、そんなみたい(な弾き方)になんねん」[注釈 1][注釈 2]と。そして、中学の頃、学校の先生に笛以外の楽器もやれっと言われ[3]、「おばあちゃんに買うても[注釈 3]」らったカワイ[注釈 4]のギターを弾きだした、そのきっかけがマイク真木の「バラが咲いた[注釈 5]

1967年(中二の終わり[1])頃から近所の西岡たかし宅に出入りするようになり、1968年には「五つの赤い風船」に参加[7]、テレビ番組『ヤング720』に出演するなど、しばらく中川イサトとも活動を共にしていた[注釈 6]。しかし、当時はまだ中学生だったため、高校受験を機に脱退。本人によると、「おれのおかんが『(有山が)勉強せんようになったから、バンドやめさせてくれ』言うて、西岡さんに電話してそれで終わり」になったとのこと[注釈 7]

同志社香里高等学校に入学し、1、2年はブラスバンド、3年になり武部行正[注釈 8]と「グループぼく[注釈 9]」を結成する[5]等、様々な音楽を聴きながら過ごし、心斎橋ヤマハ[注釈 10]のアマチュアサークル『ダックス・バンド・クラブ[1]』等で上田正樹石田長生と知り合う[注釈 11][注釈 12]。また、現在まで多大な影響を受けているブラインド・ブレイクを知ったのは、この頃の友達に「こんな雑音ばっかりのレコード聴けへんから、やるわ[注釈 13]」と言われて貰った戦前ブルースコンピレーション・アルバム[注釈 14]だった。

そうして同志社大学に進学する。1971年、武部行正とのデュオ「ぼく」として第3回全日本フォークジャンボリーに出演。翌年に武部が『ゆふすげびとのうた』を発表したが、そのレコーディングに有山も参加し数曲でギターやフルートを演奏[7]

当時の周りの状況としては、同志社大学軽音楽同好会には「ウエストロード」のメンバーが居り[注釈 15]龍谷大学に進学した石田長生は同志社の軽音楽部でギターを弾いていた[11]

有山は、ブルースやラグタイムだけではなく、「フェアポート・コンヴェンション」や「ペンタングル」等のブリティッシュフォークや当時のシンガーソングライターなども好んで聴いていた。大阪市西成区に住んでいた頃、本人曰く「岸里ジェームス・テイラーと呼ばれていた。」
ウイ・アー・サウス・トゥ・サウス

そして、上田正樹に誘われる。当時の状況を上田は、「有山との出会いはね、・・・何かのイベントで一緒になったの。ジェイムス・テイラーみたいな感じでやってた。フォークギターを弾いてる人って、リズムのいいかげんなケースが多いんだけど、有山はリズムがすごく良かった。・・・そのとき有山は、まだ同志社大学の学生で」大阪府の職員になる考えもあったが、「(上田が)口説いていっしょにやることになった。「サウス」が、かたちになるかならないかの時期」であった、という[注釈 16][11]。「最初は俺(有山)と裕ちゃん(藤井裕)と松浦(善博)[注釈 17]とキー坊の4人で、ドラムなしでブルースをルーツにしたオリジナルをやってたな。その時は「上田正樹グループ」って言うとったな。[注釈 18]

こうして、1973年頃から新バンド結成に向けて動き出していた上田正樹と、1974年「サウス・トゥ・サウス」結成[注釈 19]。当時のライブ・スタイルは、前半が戦前のカントリー・ブルースジャグバンド・ミュージック、ホウカム・ナンバー、ラグタイム風のアコースティック・セット、後半がバンドによるファンクリズム・アンド・ブルースソウルミュージックに影響を受けたファンキーなセットとして2部構成で行われた。有山によると、ライブは「・・・大阪ミナミにあった『バハマ[注釈 20]』っていう店で始めて、京都の『拾得[注釈 21]』でやるようになってだんだん(演奏場所が)広がってい」った[注釈 22]という。

結成当時の状況について藤井裕は、「(「MZA」や「バッド・クラブ・バンド」等「サウス」以前のバンドを)解散して僕(藤井)はキーボー(上田)と一緒に居て、キーボーは、有山じゅんじ(ママ)と一緒にやりたがってて、キーボーが『有山と一緒にせえへんか』ってことになって、僕は『ええよ』って。で僕と有山とキーボーでバンドつくったんです。それが「サウス」の始まりなんです。その時はラグタイムブルースってのを中心にやったんです。・・・で、キーボーが『R&Bもしたいな』って言い出してね。自分もそう思ってるところがあって、じゃ、メンバーもうちょっと集めるかって事になって、それからメンバー集め出したの。」と述べている[13]

また山岸潤史は、「上田正樹となかまたち」が毎日の文化ホールでコンサートを行ったときに[注釈 23]、上田から「有山ちゅうヤツが居って、・・・(そいつと)いわゆるカントリー・ブルースで、「ホット・ツナ」みたいな、ライ・クーダーとかな、そういうヤツをやんねん」と聞かされ、有山がギター、「(後の)ツイスト」の松浦がスライドを弾いていたのを見たのが有山との初めての出会いであった、と述べる。「イヤイヤ、ああいうスタイルをやるヤツ(バンド)は見たことなかった、おれ。本格的なさぁラグタイムのスタイルやんのさぁ。「憂歌団」は、そのもっと、シカゴ・ブルースのアコースティック版みたいな感じ[注釈 24]やったからなぁ。


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