月面着陸
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月での軟着陸に成功した場所を示す。body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}

      
ルナ計画 (ソビエト連邦)

      嫦娥計画 (中国)

      チャンドラヤーン (インド)

      サーベイヤー計画 (US)

      アポロ計画 (US)

      SLIM (Japan)
日付はすべて協定世界時、アポロ計画以外はすべて無人。
月面ポーズをとるエドウィン・オルドリン顔面を覆うバイザーに、写真撮影したニール・アームストロングが映っている。写真はNASAより。

月面着陸(げつめんちゃくりく、: Moon landing)は、地球衛星であるへの着陸をいう。英語では他に、lunar landing とも。人類史上初の月面着陸は、アメリカ合衆国アポロ11号計画における船長ニール・アームストロング月着陸船操縦士バズ・オルドリンによるものだった。1969年7月20日司令船操縦士マイケル・コリンズ月周回軌道上の司令船コロンビアで待機する中、2人の乗り込んだ月着陸船イーグル号(英語版)は司令船から切り離され、1969年7月20日午後4時17分(東部夏時間)、月面に着陸し21時間30分滞在した。米国が着陸計画を終了した1972年12月までに月に到達したのは合計12人、いずれも米国宇宙飛行士である。

本項では主に、成功へと至った月面着陸について取り上げる。人類初の月面着陸を成し遂げるべく繰り広げられた競争については「宇宙開発競争」を、アメリカ合衆国側の着陸計画詳細については「アポロ計画」を参照
計画
無人月探査計画

ソビエト連邦ルナ計画は以下の進展をみせた。1959年1月4日に打ち上げられたルナ1号(E-1)は、月の近隣を通過した史上初の月探査機となった。ルナ2号は月面に達した。1959年10月7日にはルナ3号月の裏側の写真撮影に成功した。1966年2月3日に連邦の打ち上げたルナ9号が初の月面「軟着陸」を成し遂た。1966年4月3日にはルナ10号を月の衛星とすることに成功した。

これに対しアメリカ合衆国は、月へ無人惑星探査機を送るパイオニア計画を打ち出す。しかしながら、異なった3機の探査機発射ロケットに付随した3種のデザインによる惑星探査機は10回の試み全てが失敗に終わった。

続くサーベイヤー計画は、ロボットを用いて有人月面着陸に向けた月面への安全な着陸を研究するアメリカ合衆国の取り組みの一部である。この計画で5基の探査機による7つの作戦が成功し、アポロ計画の宇宙飛行士達が降り立つに最も好ましい地点を探り当てる一助となった。その後1968年12月27日アポロ8号が有人による月軌道調査を実行し、月面に人類を上陸させる土台を築いた。
無人月面着陸

各国の初回無人着陸年月日国名探査機名着陸場所備考
1966年2月3日ソビエト連邦ルナ9号[1]
1966年6月3日アメリカ合衆国サーベイヤー1号嵐の大洋
2013年12月16日中華人民共和国嫦娥3号雨の海[2]
2023年8月23日インド共和国チャンドラヤーン3号[3]
2024年1月20日日本SLIM神酒の海[4]

アメリカの戦略探査機ガリレオによって撮影された月

アメリカ合衆国の月探査計画は、アメリカ合衆国第34代大統領ドワイト・D・アイゼンハワー政権下より開始された。週刊誌コリアーズの1950年代半ばに連載された記事では、ヴェルナー・フォン・ブラウン月面基地建設のための有人宇宙探査の概念を社会に広めたと報じられていた。ただ有人月面着陸という目標はアメリカとソビエトに壮大な技術的挑戦をつきつけた。誘導や重量管理と並んで、過熱により燃え尽きることのない大気圏再突入の方法が大きなハードルであった。ソビエト連邦がスプートニクを打ち上げた後、フォン・ブラウンはアメリカ軍部へ、1965年までに月面在外基地を創設する計画を提案した。しかし、合衆国が科学的・軍事的価値の可能性から見て、そうした軍事行動への出費を正当化することが極めて困難と考えたため、フォン・ブラウンの提案は進展しなかった。

ユーリイ・ガガーリンを筆頭とするソビエトの世界初の有人宇宙飛行が成功を収めた後、ジョン・F・ケネディは、国民の心像を掴むような宇宙計画を模索していた。彼は後に副大統領を務めることとなるリンドン・ジョンソンへ、アメリカが世界の指導者であることを証明できる科学的な奮励を勧告するよう求めた。こうしてケネディらが練った計画案には、政治目的からか第三世界飢饉を終結させる大規模な灌漑計画など、宇宙とは全く関連の無い計画も含まれていた。そしてアメリカは、可能性のある全宇宙計画の中から、有人月面着陸の競争がソビエトを打ち負かす最良の機会になるとの判断を下した。これは当時ソビエト連邦が、アメリカ合衆国よりも更に強力なロケットを保有していたためである。アメリカでは、国内における核兵器技術の発達がミサイル弾頭のさらなる縮小、軽量化へ至らしめ、結果的により小さな弾頭容量を持つロケットが開発されていた。対照的にソビエトの保有する核兵器はかなり重厚なもので、それを運搬するために強力なR-7ロケットが発達した。ケネディはフォン・ブラウンに、月面に着陸せず宇宙船で月の周囲を飛行するプラン、及び軌道に宇宙開発研究室を建設するプランを提案したが、このような質素な計画では開発競争においてソ連側が有利になってしまうことから、より野心的な月面有人着陸という決断が下された。

1960年アメリカ合衆国大統領選挙に際し、特にNASAの本拠地があるテキサス州など多くの要所となる州では経済的利益があるとして、ジョンソンはアポロ計画を擁護した。これは、前政権がアメリカ・ソビエト間での「ミサイル・ギャップ」を許す結果となったというケネディの主張を後押しし(ただし、後に各報道機関によって、ソビエトの軍事配備はアメリカが想定していたよりも劣っていたことが判明した)、彼がリチャード・ニクソンを破って当選することに貢献した。またジョンソンは、有人宇宙飛行を成し遂げなければ確実にソビエトに打ち負かされてしまうだろうとケネディに助言した。その結果ケネディはアメリカにとって宇宙開発に全力を注ぐのが最も理想的であるとして、アポロ計画を推し進めた。ケネディは資金投入を保証し、1963年の減税から宇宙開発への出費を保護し、さらにNASAが着手していた他の事業から資金の使途を転換した。この政策で、それまで他の科学的事業に駆り立てられていた、NASAの指導者ジェイムズ・ウェッブは失望した。

その後大統領ケネディは社会全体からの支援を獲得するため、特異な声明を必要としていた。1963年には、ケネディが副大統領になったジョンソンに、月計画の潜在的な技術的・科学的利益を調査してほしいと求めた。


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