月見
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望月

月見(つきみ)は、、主に満月を眺めて楽しむことである。観月(かんげつ)とも称する。

鶏卵黄身を満月に例えた料理を月見と称する事例がある(後節参照)。
歴史

月見は、主に旧暦8月15日から(午前0時を介して)16日の夜(八月十五夜)と、日本では旧暦9月13日から(午前0時を介して)14日の夜(九月十三夜)も催す。月見の「十五夜(じゅうごや)」「十三夜(じゅうさんや)」とは、これら当夜を意味する。

中国日本で特定の日と関係せずに単に月を愛でる慣習は古くから散見されるが、『竹取物語』には月を眺めるかぐや姫を嫗が注意する場面があり、日本では月見を忌む思想も同時にあったと推察される。

中国では唐代の頃から中秋節が盛んになった[1]:237。宋代の『東京夢華録』は身分に関わらず街を挙げて夜通し騒ぐ様子を記している。明代の中国は、宴会に加えて名月の日に供え物や月餅を贈り合う習慣が始まった、と田汝成の『煕朝楽事』に記録がある。

中国の習慣は平安時代の日本の貴族社会に伝わった。文献上、島田忠臣『田氏家集』に貞観元年(859年)に八月十五夜の宴を開いたことが記される[1]:237。当時の日本の月見は、詩歌や管絃を楽しみつつ酒を酌む雅味な催しで、庶民は縁遠かった。当時の月見は中国、日本ともに願掛け供え物などの宗教的な要素は見られず、月を眺めつつ楽しんだ。

室町時代も名月の日は続いたが遊宴としては簡素になり、室町後期は名月の日に月を拝んで供物を供える風習が生じた。世俗の習俗は宮中にも及び、16世紀なかばの『年中恒例記』には天皇がナスを食べ、枝豆・柿・栗・瓜・ナス・芋・粥などを供えると記す[1]:239。『御湯殿上日記』には後陽成天皇ナスに開けた穴から月を見て祈る祝儀「名月の祝」の様子が記録されている。『後水尾院当時年中行事』にもナスの穴を覗いて願をかけることが記されている[2]

団子を供えることも中国の風習にならったものだが、江戸時代に普及した[1]:241。

月見が世俗化した江戸時代前期の記録では、十五夜の日は芋煮を食べて夜遊びすることが一般的だった。当時の庶民の月見に月見団子など供え物の記録は見られず、家庭で供物の習慣が始まるのは中期以降と見られる。江戸後期の風俗記録である『守貞漫稿』は、十五夜の日は文机で祭壇をこしらえ、供え物として江戸は球形、京阪はサトイモの形、それぞれの月見団子を供えると記している[3]

ススキを飾ることは江戸時代には武蔵野・江戸から東北にかけての習慣だったが、明治以降に全国に広まった[1]:239。

アメリカには月見の習慣がなかったため、在米日本人が月見をしていたらギャングの集会か何かと誤解されたという話がある[4]
八月十五夜月見の飾り「中秋節」も参照
呼称

当夜の月を「中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ)」と称する。 新芋(サトイモ)の水炊きを供えたりすることから「芋名月」とも称する。

「仲秋の名月」の表現は「旧暦8月の月」を指し、十五夜の月に限定しない。「仲秋」は、秋季を初秋(旧暦7月)・仲秋(同8月)・晩秋(同9月)の3区分した場合の、旧暦8月全体を指す。「中秋」は「秋の中日(=旧暦8月15日)」のみを指す。

中秋の夜に雲などで月が隠れて見えないことを「無月(むげつ)」、中秋の晩に雨が降ることを「雨月(うげつ)」と称し、月を望めずともなんとなくほの明るい風情を賞する。「望(ぼう)」は満月を指す。俳諧では8月14日 - 15日、16日 - 17日の夜をそれぞれ「待宵(まつよい)」[注 1]十六夜(いざよい)」と称し、名月の前後の月を愛でる。

旧暦8月15日は、日本の六曜で必ず仏滅に該当し、俗に「仏滅名月」とも称する。

英語圏では同時期の満月を表す表現として「Harvest Moon」や「Hunter's moon」がある。
習俗

十五夜にはススキや団子、旬の収穫物などを供える。

十五夜を芋名月と称するのは、ちょうどサトイモの収穫期にあたるためで、特に西日本・京阪地方では広くサトイモを供えることが多い。サトイモの収穫祭としての性格を強く帯びているものと考えることができる[5]

これらの供物を盗んでもよいとする風習が各地にある。しかし盗みの習慣が良くないとされて廃止に追いやられたところが多い[6]

南九州の熊本宮崎鹿児島では十五夜に綱引き相撲のような年占行事を行う[7](一部の地域では九月十三夜にも綱引きを行う[8]:178)。勝負はあまり意に介されないことが多く、にぎやかに綱引きをすれば農作によいなどと言われる[8]:181。綱引きは他の地方では小正月お盆の行事である[8]:183。

鹿児島県の十五夜行事である「南薩摩の十五夜行事」・「諸鈍芝居」・「与論の十五夜踊」は国の重要無形民俗文化財に指定されている[9][10][11]
九月十三夜

八月十五夜(旧暦8月15日の夜)の月に対して、九月十三夜(旧暦9月13日の夜)の月は「後(のち)の月」と呼ばれる。十三夜は日本独自の風習と言われている[12]

文献上は藤原宗忠中右記』の長承4年(1135年)に九月十三夜を名月とすることが見え[1]:238、宇多法皇を起源としている[13]。『徒然草』239段にも八月十五日と九月十三日を名月とすることが見えている。ただし二十八宿婁宿にあたり、この宿が清明だから良夜とするという『徒然草』の説明については黒川道祐『日次紀事』が信じがたいとしている[14]

十三夜の習俗は多く十五夜と共通するが、八月十五夜を芋名月とするのに対し、ちょうど食べ頃の大豆枝豆)やなどを供えることから、九月十三夜は豆名月(まめめいげつ)または栗名月(くりめいげつ)と称する。ただし、東北地方北部では八月十五夜を豆名月とし、九月十三夜を芋名月と称する[1]:240。

また、十五夜は大麦の、十三夜では小麦の作柄を占うともされる(晴れると豊作になると言われる)[6]。十三夜を「小麦の月見」ともいう[15]

江戸時代の遊里では、十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」で縁起が悪いと遊女らに嫌われた。誘われた相手客が十三夜も来訪せざるを得ず2度目の通いを確実に行なうため、十五夜に有力な客を誘う風習があった。

旧暦の閏月で閏8月または閏9月が挿入される場合、一年で十五夜または十三夜が2回出現する場合があり、2回目はそれぞれ「後の十五夜」「後の十三夜」と称された。「後の十三夜」は2014年11月5日に171年ぶりに出現した[16]
その他

旧暦10月10日の月は「十日夜の月」と称され、「中秋の名月」と「後の月」に対して「三の月」とも称し、当夜に見る月がその年の収獲の終わりを告げるとされた。
月待ち

天候次第で月を望めない場合もあることから地方により「月待ち」の風習があり、十七夜以降を立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、寝待月(ねまちづき)、更待月(ふけまちづき)と称する。二十三夜待ちまで行う地域が多くを占めていたが、二十六夜待ちまで行う地域もあり、月光阿弥陀仏観音勢至の三尊が現れる[17]、と口実して月が昇る午前2時ごろまで遊興に耽った。この風習は明治時代に入ると急速に廃れた。
名所
日本
日本三大名月鑑賞地

大覚寺大沢池(京都府京都市[18][19]

猿沢池奈良県奈良市[18][19]


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