月照寺
所在地兵庫県明石市人丸町1-29
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分0秒 東経135度0分3.9秒 / 北緯34.65000度 東経135.001083度 / 34.65000; 135.001083
北緯34度39分0秒 東経135度0分3.9秒 / 北緯34.65000度 東経135.001083度 / 34.65000; 135.001083
月照寺(げっしょうじ)は、兵庫県明石市人丸町にある曹洞宗の寺院。山号は人丸山。本尊は十一面観音。
歴史に創建した湖南山餘鵜楊柳寺にはじまると伝えられる。887年(仁和3年)覚証が鎮守社として人丸社(現在の柿本神社)を建て、寺号も月照寺と改めたという。
当初は真言宗の寺院であったが、1575年(天正3年)曹洞宗の僧安室が入寺して曹洞宗に改められた。
江戸時代に入り1617年(元和3年)小笠原忠真が信濃国松本から播磨国明石に転封となって明石城が築城されることとなり、1619年(元和5年)現在の場所へ移された。1744年(延享元年)山号が現在の人丸山に改められた。 平安時代初期、弘仁2年(811年)に空海が現在の明石城本丸付近に当たる場所に楊柳寺と建てた事に始まる。楊柳寺は後に月照寺となる。仁和の頃(885年?889年)、住職の覚証
月照寺と明石藩の歴史
江戸時代初期、元和5年(1619年)、明石公園本丸跡にあった人丸社は現在の月照寺と柿本神社のある人丸町の地に移転。これは明石城を西国の大名への抑えとする本格的な城郭にしようという幕府の方針に基づくものだった。
戦国時代、明石地方は三木に本城を構える別所氏の支配地であった。別所氏が織田信長の家臣・羽柴秀吉に滅ぼされ、信長死後は秀吉の直轄地となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は大名の配置転換を推し進め、その一つとして三河国吉田(豊橋)から池田輝政が播磨国に移封された。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、元和3年(1617年)二代将軍徳川秀忠は信濃国松本から小笠原忠真(移封当忠政)を明石に移封した。忠真ははじめ舟上城(明石市船上町)を居城としたが、江戸幕府の命により西国街道と明石海峡を眼下に収める人丸山に新城を築くこととなったため、月照寺と人丸社は現在地に移転させられた。
移転にあたって、人丸社別当坊月照寺に対し藩主小笠原忠真の意向を伝達する執達状が出された。この執達状は以後、月照寺に伝来され、現在では明石市立文化博物館に貸し出され、常設コーナーに展示されている。
文化財山門
重要文化財
種別:書跡・典籍[1]
名称:桜町天皇宸翰及び一座短籍(50葉)1帖
指定日:1901年(明治34年)8月2日
明石市指定文化財
種別:建造物[2]
名称:月照寺山門 - 旧伏見城藥医門。1610年明石城に移築(切手門)、1873年現地に再移築
指定日:1970年(昭和45年)5月21日
種別:書跡[2]
名称: 三十六歌仙絵及び和歌式紙
指定日:1970年(昭和45年)5月21日