月探査
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本記事では物理的な月探査(つきたんさ、Exploration of the Moon)について解説する。
概説

の物理的な探査はソビエト連邦宇宙探査機ルナ2号を打ち上げ、1959年9月14日にの表面に衝突させた時に始まった。月の裏側は、ソビエト連邦の月探査機ルナ3号によって、1959年10月7日に初めて撮影された。

2021年現在、人間を月面に着陸させることに成功したのは、NASAアポロ計画だけである。その初の月面着陸は1969年のことで、科学観測機器を月面に設置し、月の岩石(月の石)や土砂の試料を地球に持ち帰った。

2020年現在、月の裏側に探査機を着陸させるのに成功したのは、2018年末に打ち上げられた中国の「嫦娥4号(じょうが4号)」だけである[1][2]
初期の歴史「月理学」を参照

アリストテレスの哲学では、月から始まる天国は完全な領域、地上は変革と破壊の領域であり、これらの類似性は厳しく排除された[3]。アリストテレス自身は、月には混乱の領域が多少混入している可能性があると示唆していた。著書『On the Face in the Moon's Orb』の中で、プルタルコスは地球と月について、異なった見解を示している。彼は、月には太陽の光が届かない深い窪みがあり、月の斑点は川や深い裂け目の影であると唱えた。彼はまた、月に生物が存在するとも考えた。月は地球の鏡であり、地球の特徴を反映しているという考えは昔からあったが、月が地球に対して見せる面が常に同じである事から、この説明はすぐに否定された[3]。最終的に、月には密度のばらつきがあり、そのせいで完璧な球形にあのような模様が表れるという説明が標準的になり、月、天国の完全性は保たれた[3]

中世イスラム世界、ヨーロッパのアリストテレス主義者達は、月の斑点をアリストテレスの考えで説明しようと試みた[3]トマス・ハリオットは、長年月の観測を続け、初めて望遠鏡像を描写したが、彼のスケッチは出版されなかった[3]。最初の月の地図はベルギーの天文学者ミヒャエル・ラングレンが1645年に描いたものである[3]。その2年後、ヨハネス・ヘヴェリウスによってさらに影響力のある論文『月面学(Selenographia)』が出版された。ヘヴェリウスの体系は、プロテスタント国では18世紀まで使われたが、1651年にイエズス会の天文学者ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリが出版した体系に置き換えられた。彼は、裸眼で見える斑点に海の名前、望遠鏡で見える斑点(クレーター)に哲学者や天文学者の名前を付けた[3]。1753年、クロアチア人でイエズス会の天文学者であるルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチは、月には大気がないことを発見した。1824年、ドイツの天文学者フランツ・フォン・グルイテュイゼンは、月のクレーターの生成を小惑星の衝突によって説明した[4]月探査の先陣を切ったルナ計画の着陸地点は赤色で示されている。(後手にまわったほうのアポロ計画の地点は緑、サーベイヤー計画は黄色で確認できる)
宇宙開発競争詳細は「宇宙開発競争」を参照「ソ連の有人月旅行計画」も参照

冷戦下におけるソビエト連邦アメリカ合衆国宇宙開発競争は月を巡っても行われた。これによって科学的に重要な発見が多くなされ、1959年にはソビエト連邦によって初めて、月の裏の写真が撮られた。1969年には初めて月面に人類が立ち、20世紀で、そして人類の歴史でも最も重要な出来事の1つになった。1959年のルナ2号の月面への到達の成功を記念して発行された切手初めて月の裏側を撮影したルナ3号の軌道。

月を訪れた初めての人工物は、ソビエト連邦の無人探査機ルナ2号であり、1959年9月14日21時2分24秒に月面に衝突した。月の裏は、ソビエト連邦の月探査機ルナ3号によって、1959年10月7日に初めて撮影された。

ソビエト連邦のこれらの成功に追いつくため、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、月面に人類が立つことが国の計画の目標であるとして、1961年5月25日の両院合同会議で次のように表明した。

"我が国は、人を月面に着陸させ無事に地球に帰還させるという目標を、今後10年以内に達成することを約束すべきであると、私は信じている。この時代の宇宙計画で、人類にとって印象深い、また長い目で見た宇宙探査にとって重要な計画はないであろう。"

[5]

とはいえ、当時はまだソビエト連邦がリードしていた。ルナ9号は、初めて月面へ軟着陸した探査機であり、1966年2月3日に月面の写真を地球に送信し、それまで心配されていたように月の表面が厚い塵の層に覆われていて、探査機がその中に沈んでしまったりはしないことを証明した。初めて月の周囲を回る人工衛星になったのは、1966年3月31日に打ち上げられたルナ10号である。

アメリカは、月への無人探査機として、月の近接観測を行うレインジャー計画を開始し、1961年から1965年にかけて9機が打ち上げられた。続くサーベイヤー計画では、1966年から1968年にかけて7機が打ち上げられ、月に軟着陸している。

人間による直接の月探査に対して最も大きな障害となったのは、大気圏再突入の際に機体を守る耐熱シールドの開発だった。アメリカ合衆国は、アメリカ航空宇宙局が行った、超音波風洞による熱重量分析実験によってこの分野で優位性を持っていた。1968年12月24日、アポロ8号の乗組員フランク・ボーマンジム・ラヴェルウィリアム・アンダースの3人は初めて月の周回軌道に入り、また自らの目で月の裏を見た初めての人間になった。アポロ11号で月面に着陸し、月面を歩くオルドリン(撮影ニール・アームストロング。アームストロング自身の姿はオルドリンのヘルメットに小さく映っている。)

人類が初めて月面に立ったのは1969年7月20日のことであり、アポロ11号ニール・アームストロングエドウィン・オルドリンが初めて月面を歩いた。初めてのロボット月面車はソビエト連邦のルノホート1号で、ルノホート計画の一環として1970年11月17日に打ち上げられた。これまでのところ最後に月面を歩いたのは、1972年12月に月に到着したアポロ17号ユージン・サーナンハリソン・シュミットである。

月面に近づくアポロ12号月着陸船NASA提供)

アポロ17号で月面に降り立ったハリソン・シュミット

ルナ16号ルナ20号ルナ24号及びアポロ11号からアポロ17号まで(アポロ13号を除く)によって月の石のサンプルが地球に持ち帰られた。

1960年代半ばから1970年代半ばにかけて、65回の月面着陸が行われた。特に1971年は1年間で10回も行われたが、1976年のルナ24号を最後に突然止まってしまった。それ以降、ソビエト連邦は金星宇宙ステーション、アメリカ合衆国は火星及びそれ以遠を目指すようになった。


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