月形那比古
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月形那比古
生誕 (1923-05-22)
1923年5月22日
日本新潟県糸魚川市
死没 (2006-08-16) 2006年8月16日(83歳没)
岐阜県土岐市泉町の志野誕生地にて死去
国籍 日本
別名鬼翁(号)、月心齋(号)、大陶那元(得度名)
出身校早稲田大学 第二次世界大戦後復学して 日大芸術学部卒業
代表作「志野梅絵茶碗」(1959年)
「鬼志野茶碗(1960年)
「雪鬼志野大壺」(1961年)
「鬼黄瀬戸砧花生」(1965年)
「引出黒茶碗」(1966年)
「鬼織部茶碗」(1967年)
「孔雀鬼志野大壺」(1989年)
「月に吠える」彫刻(1967年)
「火神念像」彫刻(1985年)
「善光寺如来像(本田善光尊像)」善光寺収蔵 高さ3メートル60センチ 彫刻(1997年)
「フラメンコ幻想」絵画(2000年)
「薪能」絵画(2001年)
「海潮音」絵画(2004年)
「富士幻想」絵画(2006年)
「志野茶碗」(2006年)
「鬼志野大壺」(2006年)「鬼志野茶碗」(2006年)など他多
影響を受けたもの荒川豊蔵に戦後復学編入した日大芸術学部在学中に出会い荒川豊蔵に傾倒して師と仰ぎ交流
影響を与えたもの昭和中期のそれまでの伝統を再現すると言う作家の仕事に、オリジナルの作家の特色を前面に出した創作活動をはじめたことで知られる
配偶者月形益代(三重県で知り合う) 益代(ますよ)1936年(昭和11年)京都市にて出生、出身と育ちは大阪市内の東成区育ち。大阪市東成区中道小学高卒業、益代の父は東京スカイツリーを手がけた今で言うスーパーゼネコン5社のうちのひとつ大阪発祥の大林組に勤務。のち戦時中に父の実家の三重県松阪市にに移住疎開。
子供月形明比古
受賞文部大臣賞、王朝芸術文化賞、鳳凰賞など他
公式サイト月形大陶坊美術館 (月形那比古記念美術会館)https://sites.google.com/site/daitoubo/
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月形 那比古(つきがた なひこ 1923年大正12年)5月22日 - 2006年平成18年)8月16日)は、日本の陶芸家。鬼志野創始者、鬼志野宗家。昭和中期から平成中期にかけ、現代美濃陶芸界における志野焼黎明期?発展期?成熟期で活躍した日本を代表する荒川豊蔵の次の直接の第二世代の陶工作家。「炎の陶工」「炎の陶人」「沙門の陶工」と言われた。代表作は美濃陶芸の他に、絵画、書、彫刻、篆刻作品などにも秀作を手掛けた。志野焼誕生地の美濃・岐阜県土岐市にて没。享年84(満83歳没)。
略歴

1923年(大正12年)新潟県糸魚川市に生まれる。当時の実家は専業農家。5人兄弟姉妹の三男。父は石刻匠、母は華道家。父が那比古5歳の時に不慮の事故で急逝。母子家庭で育てられる。旧制中学時代に当時の国鉄糸魚川駅で実家で菜園した野菜を戸板にて販売して家計を助けた。のちに長岡市の土建業の高瀬組に丁稚に入り、新潟縣立長岡工業高等學校に入学。早稲田大学建築科夜学に入学し終戦後に復学編入し日本大学芸術学部卒業。


在学中に荒川豊蔵に運命的な出会いをする。のち荒川豊蔵の作陶創作精神と美学に傾倒。新潟県立長岡工業学校卒業後、早稲田大学在学中の1941年学徒出陣、一年早く志願して第二次世界大戦(1939年?1945年。史上二度目の世界大戦)へ参戦。元大日本帝国陸軍、技術将校。(最終階級は中尉)戦後復学し日本大学芸術学部卒業。

志野は桃山時代に発祥、その後衰退し昭和中期に荒川豊蔵に復興再現されるまで、焼成方法など志野には不明な点が多かったが、永年の天命創作居住を美濃の岐阜県に構え、昭和30年代中頃に独自の研究を基に半地下式穴窯を築き、薪を燃料とする独自焼成方法を発見探求、志野をさらに極端なまでの長時間焼成する火陶「鬼志野」を発表し、昭和陶芸界に衝撃を与えた。また1970年代以降にはには鬼志野作品がアメリカを中心とした海外にも紹介され、国際的に鬼志野がoni-shino、devil-shino、damon-shinoと紹介され、日本国内のみならず直接的、または間接的に海外の陶芸家などにも大きな影響を与えた。

また得度及び出家し、一千日の托鉢修行から受けた禅の精神を反映させた作品群は「禅の陶芸」「禅陶」とも言われた。陶芸創作活動の他に並行して、絵画、映画、写真、建築、篆刻、書、彫刻、モダンバレーの舞台監督などにも、ジャンルを超えた多彩な創作の足跡を残したことでも知られている。主な受賞は文部大臣賞受賞。パリ芸術大賞受賞、現代文化賞など他多。美濃の陶工がパリで初めて単独個展をした先駆者として知られている。「炎の陶人」「東洋のピカソ」の異名を持つ。

陶芸代表作に鬼志野、志野の他に、鬼黄瀬戸などの鬼シリーズがあり、彫刻代表作品は長野市善光寺(国宝の本堂で知られる)大本願宝物殿にある「善光寺御縁起・如来奉遷本田善光尊像」(本体高さ3メートル60センチ)など他。絵画代表作品は富士シリーズ、龍神(日大所蔵)など。書や篆刻作品には禅をテーマにした作品が多い。一貫した創作活動のテーマは「生存への畏敬」。彼のその風貌に圧倒される面があったり、マスメディアなどでイメージが先行する時もあったが、彼の長島茂雄風に良く似たしゃべり方から受ける印象は、実に人間味あふれる人物であった。2006年(平成18年)8月16日朝に急性心筋梗塞にて急逝。享年84(満83歳没)。

※文中にある「半地下式穴窯」の「穴窯(あながま)」は正式には「窖窯(あながま)」と書く。

※桃山時代天正年間に志野は発祥し焼かれていたことから、美濃(岐阜県東美濃地方の多治見市から東にある市町村。東美濃なので正確には東濃地方と呼ぶ。)においては、半地下式穴窯のことを天正窯(平凡社陶器全集などで使用)という名称で使用したり、その窯の形状から半地上式単室穴窯、半地下式単室穴窯、と表記されるが、どれも間違いではない。

※文中上段表記にあるdevil-shino、damon-shinoの表現は日本の「鬼」を表現するためのものであって、英単語が持つ意味ではない。現在は日本語名がそのまま英単語名詞としてoni-shinoないしonishinoと表記される。

※愛陶家などで交わされる言葉である「美濃」は和紙で有名な岐阜県美濃市のことではない。他の代表的伝統陶芸地では「備前」「信楽」「伊賀」「笠間」「益子」「常滑」「有田」「萩」と呼ばれても、そのまま市がつくのでわかりやすが、「美濃」という呼び方で指す市町村は岐阜県多治見市、土岐市、瑞浪市、可児市、(笠原町は多治見市に合併)のことを特にいうが、専門書などで広く指す場合には岐阜県瑞浪市以東である恵那市、中津川市や岐阜県可児市北部にある美濃加茂市やその周辺も指す。ただし正確に言うと可児市、美濃加茂市は中濃地方(地域)になる。
初期

月形那比古は終戦後、かねてから崇拝する荒川豊蔵に傾倒していったのだが、昭和20年代から昭和30年代前半の岐阜県の美濃の陶工は志野焼の故郷、岐阜県東濃(東美濃)でも著名な陶芸作家は荒川豊蔵を筆頭に、加藤十右衛門、初代加藤幸兵衛ぐらいしかいなく、1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピック景気前の日本の地方はまだまだ昔の佇まいを残す典型的な田舎であった。美濃における当時は個人作家というスタイルは都市部などでは個展発表で認められるスタイルとなりつつあったが、陶芸作家という言葉は一般的認知度は低かった。当然陶芸並びに創作活動だけでは食べていくことは出来にくい状況だったと思うが、日本における現代舞踊の第一人者の石井漠の一番弟子である※石井みどり芸術バレー団の舞台監督を任されることになり、創作活動の一環として、舞台監督を約5年ほど挑戦する。挑戦するも食い足りなく、求めている今の心境は満たされないと感じるようになっていったようである。

若き日の月形那比古は第二次世界大戦での悲惨な体験を元に、今以上に国境のない世界で生きて行きたいと考えるようになる。彼らのためにも自分は出家し、一千日の托鉢修行を普化宗(ふけしゅう)京都明暗寺虚無僧になり、全国行脚を発願するようになる。尺八を法器とし一千日の托鉢修行を行ったのであった。簡単に言えば虚無僧として尺八を吹くことが読経することと同じと考える普化宗宗派の本山で、禅宗の一つとなる明暗寺に出会ったということと、自らの模索期と重なり、自己を見つめることになったのだろう。また秋葉山曹洞宗に帰依、火防ならびに炎を祈り拝みながら、昭和35年ごろに自分の陶工スタイルが確立しつつ、それまでにも描いた初期の抽象絵画よりも早く全国縦断展にて独自の陶芸の鬼志野を発表していくようになる。

※文中の「鬼志野」の読み方は「おにしの」と読む。

石井みどり・・・現代舞踊家。舞踊芸術家。大正2年生1913年生?平成20年2008年没。享年94。社団法人現代舞踊協会名誉会長。芸術選奨、紫綬褒章、勲四等など授与。国内外で公演活動を行う。石井漠(現代舞踊創始者。日本におけるモダンダンス及びバレーの祖。1886年生?1962年没)の高弟子。
中期

昭和35年(1960年)から昭和39年(1964年)になると、美濃の陶芸作家は前出の荒川、加藤、初代加藤以外に月形那比古、奥磯栄麓、松山祐利らが個人作家として台頭した、特にこの三人に言えることは、荒川豊蔵についで美濃でもっとも早く半地下式穴窯を再現し、その極限とも言える焼成方法を自分のものにしたことがいえよう。昭和40年代の全国的な第一次陶芸ブームの波がおこり始まるのもこのころである。彼らは全国展開を個々にするようになって行く。月形那比古は黒田領治(初代黒田陶々庵 明治38年1905年生?昭和62年1987年没)から陶工ならぬ、焼工と言われたりしたのもこの頃である。仮に志野の第一世代が荒川、加藤十右衛門とすると、(初代加藤幸兵衛は志野も焼成していたが、色絵など多岐にわたるジャンルの焼き物をしていた。)志野の第二世代の陶工は月形、奥磯である。(松山祐利は主に美濃にいながらも自然釉焼き〆陶芸を得意としていた)

昭和40年(1965年)から45年(1970年)には岐阜県美濃陶工の第三世代の鈴木蔵、玉置保男、若尾利貞、加藤孝造らが独立、ますます美濃の陶芸界は活発になっていく。また志野再興第一世代の荒川豊蔵の、個人作家としての内弟子である吉田喜彦、中山直樹らが独立、加藤十右衛門内弟子の滝口らが独立し、志野並びに美濃陶芸の都(下記の※1参照)は不動の「陶都」として一般大衆にも認知されるわけである。

この頃、月形那比古は内一番弟子となる加藤芳比古が入門し、個人作家としての責任が大きくなっていく。同時にテレビ出演や、雑誌マスコミなどの取材も増え、昭和48年(1973年)に昭和30年代からの名品集である鬼志野図鑑を発行するなど、今まで以上に独自の路線とともに、「燃ゆる炎の造形想念」を開眼することになった。

※昭和30年代の主流の窯は、完全地上型の四角い窯が主流であった。のちにこの四角い窯がガス窯メーカーの原型ひな形になっていく。

※1ここでは(一般的に美濃焼※1-1といわれる主産地)、当時の市町村の名称での岐阜県東濃(東美濃)の指す市町村は土岐市、可児町、多治見市、笠原町、瑞浪市のことを言う。可児町は現在可児市へと市制になっている。

※1-1美濃焼との名称は広義の意味であって、美濃(東濃地方)で焼かれた(焼かれている)焼き物はすべて美濃焼になるが、美濃焼と言う言葉のニュアンスは産業としての陶器、または陶芸を指す場合が多く、志野、織部、黄瀬戸などの伝統陶芸は、そのまま、志野焼、織部焼などとも言われる。カテゴリーとして分けた場合には、美濃焼は大きな総称であり、この場合には志野、織部、黄瀬戸、美濃伊賀、志野織部、瀬戸黒(天正黒または引出黒)などが入る。また志野や織部も枝分かれするが、志野を例にとって見てみると鼠志野、紅志野、絵志野、練込志野、無地志野、赤志野とその技法や色の発色などから由来する分類に分けられる。
後期

昭和50年(1975年)から昭和63年(1988年)(昭和64年は1月1日から1月7日までの一週間しかない)までを後期とすると、日本の高度経済成長期とあいまって、自由に創作活動ができた時期であるといえよう。確かに月形那比古は陶芸作家であるが、洋画家という一面も持っていた人物である。定例個展タイトルである「月形那比古の全貌展」は壮大なスケールの総合芸術活動を行い陶芸、絵画、彫刻、篆刻、書など日本縦断ツアーで発表し衆目を集めた。また芸術の都フランス・パリでの全貌個展を連続2回(当初は1回の予定だったらしいが、絶賛されて2回目を開催。)やり遂げ、美濃の陶工芸術家の中で初めて前人未到の単独個展をパリにて行った。このことは後進を導く例になったのであった。
晩期

平成元年(1988年・那比古65才)から平成18年(2006年・那比古83才)を晩期及び最晩期とするならば、彼自身の芸術創作活動の一つのまとめの時期にあたると時代と言えよう。同時に現代美濃陶芸における巨匠の地位を築いた時期にあたる。日本国内における凱旋個展を成功させ、46都道府県開催の全国ツアー個展での月形那比古の創作作品「表現手段は違っても芸術はひとつ」の思想と彼独自の作品発表スタイルはジャンルを超えたファンに恵まれ、また良い環境と良いスタッフに恵まれたラッキーボーイであった。


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