月宮乙女
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つきみや おとめ
月宮 乙女
本名風月(ふうげつ)豊子[1][2]
別名義葉村光子、鶴見千代、月宮於登女
生年月日 (1915-05-23) 1915年5月23日(108歳)
出生地横浜市伊勢佐木町[1][2]
職業女優
活動期間1932年 - 1966年
著名な家族桂章太郎(夫、死別)
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月宮 乙女(つきみや おとめ[1]1915年5月23日 [1] - 生死不明)は、日本女優[1]神奈川県横浜市伊勢佐木町生まれ[1]
来歴

父親の風月一は舞台俳優[1]。その縁で1920年新派の木下吉之助一座に入り、子役として初舞台を踏む[1]五月信子の近代座(当時の芸名は「葉村光子」)、伊井蓉峰一座を経て、1932年3月、東亜キネマから独立した尾上菊太郎の菊太郎プロへ入って映画に転身[1]。「月宮乙女」の芸名で、いずれも菊太郎主演の「元禄村雨格子」、「十六夜蜘妹」(1932年)、「開化の与太者」(1933年)などに出演[1]。同時に入社した近代座の姉弟子・月浦かすみ(のちの大倉千代子)とともに同プロのスター歌川絹枝に次ぐ若手女優となった[1]1933年3月解散となるや4月には宝塚キネマへ入り、オールスターの「嬌艶竜虎の渦」に羅門光三郎原駒子木下双葉などと共演。「護持院ケ原の火華」で毛利峰子とともに羅門光三郎の相手役をつとめた[1]。同年、宝塚キネマのスター俳優の桂章太郎と結婚[3]。8月には、桂章太郎、毛利峰子とともに大都映画へ転じ、大都のトップスター海江田譲二主演の「関の佐太郎」に春水麗子、東竜子とともに共演、「捨売百両笠」でも木下双葉と、「日の出の銀さん」で望月礼子とともに海江田の相手役をつとめ、1934年に入るとほぼ海江田の相手役専門となり、健康的な若さと庶民的な美貌で、大都映画に新鮮な風を吹き込んだ[1]。だが、1935年に夫の桂章太郎が召集され、同年5月13日に満洲(現在の中華人民共和国東北部)で戦死するという悲運にも見舞われている[4]

1935年11月に大都を離れ、早川雪洲が設立した日本仏教劇協会に参加[1]。同年12月の日本劇場での公演「釈迦一代記」に雪州や関屋敏子らと共演[1]。その後も早川雪州一座に加わり、各地を巡演[1]。1936年9月に阪東妻三郎プロダクションに招かれ、「風流小唄侍」で阪東妻三郎の相手役をつとめたのを皮切りに、阪妻プロダクションの準専属スターとして、「綺羅の源内」、「怒濤一番乗」(1936年)の2作で阪妻の相手役をつとめたが、1936年12月に同プロダクションは解散[1]。1937年に協同映画の「戦国時代」で月形龍之介の相手役として特別出演した後、東宝系の今井映画製作所に入社[1]。先に同社に入社していた海江田譲二とのコンビが復活し「吉良の仁吉」、「雲霧仁左衛門 前後篇」、「やくざ囃子」(1937年)、「鼠小僧初鰹」、「大江戸春の夜話」、「両国剣囃子」(1938年)で海江田と共演[1]。宝塚キネマ以来の羅門光三郎とも「西郷南州」(1937年)、「里見八犬伝 前後篇」、「猛虎の一代」(1938年)で共演した[1]。1938年に今井映画が東宝映画京都撮影所に吸収されてからも海江田とのコンビは続いたが、同年10月に海江田が退社すると彼女も東宝京都を離れ、翌年日活京都に入る[1]。以後は助演にまわるが、「宮本武蔵」(1940年)の朱実、「剣光桜吹雪」(1941年)の園絵、「海を渡る祭礼」(1941年)のおかつ、「宮本武蔵 一乗寺決闘」(1942年)の御手洗右近などを好演した[1]

戦中から戦後にかけては尾上菊太郎一座や沢村国太郎の新伎座、これらの合同公演、あるいは大倉千代子一座などに加わって実演に出た[1]1946年大映野淵昶監督「恋三味線」に嵐寛寿郎の相手役として復活[1]。名門・杵屋を破門された三味線弾き(寛寿郎)に廓を抜け出したところを救出され夫婦になって流しの旅を続ける女芸人を好演[1]片岡千恵蔵多羅尾伴内シリーズ第一作「七つの顔」に助演したあと東横映画稲垣浩監督「こころ月の如く」(1947年)にヒロイン轟夕起子の父親で伯爵の斎藤達雄の二号を演じ、同年の大映の「逃亡者」では現代の“鼠小僧”にふんした大友柳太郎の昔の恋人を演じ、その後も年に数本だが、片岡千恵蔵主演の大映「おしどり笠」(1948年)、東映獄門島」(1949年)などに助演[1]


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